シルクコード図書館 · 小説の棚潮の届かない灯台 · 目次

潮の届かない灯台 · 全5部

三 父のいた水門

十月七日の朝、澪は店の表に「本日、午後より開けます」と書いた札を下げた。昨日までなら、それだけで母の目を気にしただろう。修理を待つ時計は棚に七つある。店を離れる理由を説明する相手はいないのに、針の止まった文字盤がこちらを見ているような気がした。

作業台の引き出しから、母が使っていた小さな巻尺を取り出す。革のケースの角が削れ、真鍮の留め具には緑青が浮いていた。紗季は預かり品をすぐ分解せず、まず寸法を測った。腕時計の革帯を交換するときも、客が前と同じでいいと言うだけでは済ませなかった。前と同じ手首とは限らないでしょう、と言っていた。

澪は巻尺をポケットに入れた。古い図面と同じ土地とは限らない。今日は、それを確かめに行く。

待ち合わせ場所の記録館裏には、律が先に来ていた。肩に測量用の棒を二本かつぎ、足元に長靴の替えを並べている。航は館の鍵を開けながら、薄い紙の束を振ってみせた。

「事故の日の記録、閲覧用の写しを作った。原本は持ち出せないから」

紙には複写の許可を示す印と、資料番号が入っていた。航が一枚ずつ説明した。消防団の活動時刻、警察へ提出された被害届の控え、修がその日使っていた作業車の発見場所。新聞の切り抜きもあったが、航はそれを別の封筒に入れていた。

「記事と記録は混ぜない方がいいと思って」

澪は礼を言い、作業車の略図を見た。修の字はそこにはない。父がいなくなったことを説明する紙には、いつも父だけがいなかった。

「サエさんは現地で合流するそうです」

律が言った。

「南の堤の道は歩けます。水路へ降りるのは、私が確認した場所だけにしてください。古い護岸は見た目より脆いです」

三人は町の西へ歩いた。住宅の間の溝には、地下から湧く冷たい水が流れていた。道は少しずつ下り、家の基礎が高くなる。石垣に埋め込まれた古い輪金具の前で、航が立ち止まった。

「この辺は舟をつないでたって、昔の聞き取りにあった。洪水のときだけ」

「記録館に?」

「うん。でも場所が曖昧で、展示には使ってない」

律は輪の高さを目で測った。

「平常時の地形だけ見ると、ここが低いとはわかりにくいですね」

迂回水路の入口は、雑木林の陰にあった。水路は、澪の想像したコンクリートの溝ではなく、浅い谷そのものだった。中央を幅の狭い流れが通り、その左右に草の茂った平場がある。谷の上には栗の木が枝を伸ばし、落ちた実が濡れた葉に埋もれていた。

サエは入口の柵の外に立っていた。杖の先を地面につけ、近づく三人を待っている。

「ここを埋めるんじゃないよ」

挨拶より先に、サエはそう言った。

「入口を細くして、普段の水だけ管へ通す。余った土地は歩く道になる。説明会ではそう聞いた」

「閉鎖というより、機能を変える計画です」

律は図面を広げた。

「問題がないか、まだ全部を見ていません」

サエは図面をのぞかず、林の奥を見ていた。

「普段の水が全部の水なら、そうできるんだろうね」

律は答えを急がなかった。柵の鍵を開け、足元を確かめてから、三人を呼んだ。

谷に入ると町の音が遠くなった。流れはくるぶしほどの深さで、小石の上を白く滑っていた。澪は護岸の継ぎ目に、厚い苔が筋を作っているのを見た。いまの水面よりずっと高い。律が測量棒を立てる間、航が位置と時刻を記入した。澪は巻尺を渡し、数字を読み上げた。

「一メートル、四十二」

「いまの水面から?」

「うん」

「苔の境界だけでは最高水位とは言えません。日陰や湧水でも変わるので。ほかの痕跡と合わせます」

律は言いながら、苔と石積みを同じ写真に収めた。澪は苔の位置と、律の留保を一緒に記した。

入口から百歩ほど進むと、右側の平場が不自然に盛り上がっていた。草の根元から、四角いコンクリートの角がのぞいている。

「ここ、図面では平らです」

律がしゃがみ込んだ。

航が周囲を見回し、赤い棒のついた杭を見つけた。文字は日に焼けていたが、工事の境界を示す記号が残っていた。

「道路の補修で土を置いた所かな。工事の写真があるかもしれない」

「置いた、だけならいいんですが」

律は盛り土の端をたどった。表面には十年は育ったように見える木があり、その根が下の石積みを抱いていた。澪には、土が動くことと、水が動くことを別々に考えていた自分がわかった。ここへ土を積めば、同じ水は別の場所へ行く。

サエが杖で指したのは、谷を横切る小さな橋だった。

「あそこは昔、もっと口が広かった」

橋の下には丸い管が二本並んでいた。上には細い管理道が通っている。律は図面を裏返して年代を確かめ、橋の手前から写真を撮った。

「この管は、添付の構造図にありません」

「新しい?」

澪が尋ねると、律は首を横に振った。

「いつ入れたかはまだわかりません。少なくとも、この図面の状態とは違います」

水は二本の管のうち一本だけを流れていた。もう一本の口には、枝と枯葉が黒く固まっている。澪が手を伸ばしかけると、律が止めた。

「動かさずに撮らせてください。詰まり方も資料になります」

航が資料の略図を取り出した。

「父さんの車、見つかったのはこの橋の下流だ」

澪は紙を見る前に、流れの先を見た。谷が左へ折れ、そこから先は見えなかった。

「ここまで流れたの」

「車だけ。父さんの発見場所は別」

航の声は低かった。姉を傷つけないために曖昧にするのではなく、混ぜてはいけないから分けている声だった。

サエは橋の欄干に手を置いた。塗装の下から赤錆がのぞいている。

「あの日、修さんはここから入ったんじゃない。旧水門の方から来た」

澪はサエを見た。老女は水面を見下ろしたまま続けた。

「入口を見て、それから戻ったんだ。私が知らせたから」

谷の音が大きくなった。澪は聞き返さなかった。サエの言葉が続くのを待った。

「今日は、奥まで見るんだろう。そっちに、私も話す場所がある」

律は時刻を確認し、橋の先の道を確かめた。四人は一列になって進んだ。澪はサエの少し後ろを歩いた。杖が石を打つたび、乾いた音がした。

谷の曲がり角を越えると、古い階段が現れた。石段は七段だけ残り、その上は草に隠れていた。階段の脇に、小さな平場がある。サエはそこへ腰を下ろした。

「灯台にいたのは私だよ。十八年前の、あの日も」

航は記録の紙を重ねて、鞄へしまった。澪には、その動作がよく見えた。聞いた話をすぐ記録に変えるのではなく、まず人の話として聞こうとしている。

「雨は、こっちでは昼過ぎまで弱かった。上で降っているとは聞いてたけど、いつものことだと思った。旧水門の水位計が急に動いたと連絡が来て、修さんを呼んだ。そのときには、もう遅かったんだ」

「何が、遅かったの」

澪は初めて尋ねた。

「避難の連絡。下の家へ、人を回すこと」

サエの指が杖の持ち手をなぞった。

「計器の癖を知っていれば、見たときにわかる。そう言ってた。私もそう思ってた。けど、その癖を知ってる人は少なくなってた。修さんは鐘の音を聞いて、点検を頼まれたと思って来た。私は危ないと知らせたつもりでいた」

律が顔を上げたが、口は開かなかった。

「同じ音を、違う知らせだと思ったの」

澪の声は自分の耳に平たく響いた。

サエはうなずいた。

「口で教えれば済むと思ってたんだよ。昔からそうしてたから。知らせる相手がいなかったら次へ、なんて決まりもなかった。役場へ電話したときには、別の場所の通報が重なってた。誰に何を伝えたか、私もちゃんと残してなかった」

澪は石段の先を見た。草が生い茂り、昔どこへ続いていたのかもわからない。

「父は知ってた?」

「来てから知った。水の増え方を見て、下の家へ行った。私は灯台へ戻った。修さんは二人を外へ出して、そのあと旧水門へ向かった。閉めれば、住宅の方へ行く水を減らせると思ったんだろう」

「それは記録にある」

航が静かに言った。

「避難した人の証言。門へ向かった時刻は、はっきりしてないけど」

「そう。私は最後のところを見ていない」

サエは澪を見た。

「ここは、はっきりさせておきたい。私は修さんが流されるのを見てない。あとで聞いたことを、自分の目で見たようには言えない」

澪は唇を噛んだ。長い間欲しかった話なのに、聞けば父が近くなるというものでもなかった。むしろ、知らない父が増えていた。避難を促す父。水門へ走る父。危険を測り違えたかもしれない父。

「みんな、勇敢だったって言った」

「勇敢だったと思う」

「でも、危ないと気づくのが遅れた」

サエはすぐには答えなかった。流れの上に、栗の葉が一枚落ちた。

「修さんも、私も。ほかの人も。知ってるつもりだったんだと思う」

澪は膝の上で手を握った。父を責められた怒りとは違った。父を責めてはいけないと、ずっと自分に言ってきたことへの怒りだった。あの日、どうして家へ帰ってこなかったのか。その問いを口にすると、救われた人を恨むように聞こえると思っていた。

「母には話したの」

「話したよ。葬儀が済んでから」

「全部?」

「いま話したことは」

「だったら、どうして私には」

途中で声が途切れた。サエは目を伏せなかった。

「私には、わからない。紗季さんの代わりに理由を言うことはできない」

航が足元の小石を一つ拾い、すぐ元に戻した。

「僕、父さんの顔を思い出すと、写真が先に出てくる。表彰されたときの」

澪は弟を見た。

「姉ちゃんが怒ってるとき、僕は、そんなに覚えてるんだって思ってた」

「怒ってた?」

「うん。父さんの話をされると」

澪は否定できなかった。誰かが父の立派さを話すたび、食卓で箸を置く母の手を見た。澪が覚えている父は、靴下を裏返しで洗濯に出し、店の入口の段差を何度直しても斜めにする人だった。町が語る父は、そういう小さな失敗を一つも持っていなかった。

「父さん、私の運動会に遅れたことがある」

航が顔を上げた。

「水路の仕事?」

「寝坊。母さんが何回も起こしたのに。走って来て、違う学年の競走を見てた」

航はほんの少し笑った。サエの口元も動いたが、笑いにはならなかった。

「そういう話を、してもよかったんだよね」

澪が言うと、航はうなずいた。

谷を出る前、律は石段の位置を記録した。事故の物語とは別に、この平場が増水時にどの高さまで水を受けたかを確かめるためだった。石の裏側には泥の細い線が残っていたが、それが十八年前のものか、もっと新しいものかはわからないと言った。

澪は、不明な点を手帳に書き留めた。

午後、店に戻ると、常連の宮野が柱時計を抱えて待っていた。澪は札を外して頭を下げ、時計を受け取った。

「お父さんに似てきたね。町のための仕事で忙しいんだって?」

澪は時計の裏蓋に手を置いたまま止まった。以前なら曖昧に笑っただろう。

「いまは、水路の形を確かめてるだけです」

「いや、立派なことだ。あの人も自分のことより町のことを」

「父は、自分のことも考えていたと思います」

宮野が驚いた顔をした。澪は続けた。

「帰って来たかったと思います。私たちも、そう思って待っていました」

言ってしまうと、息が浅くなった。宮野は持っていた帽子を両手で折り、しばらく見つめた。

「そうだね」

彼は小さく言った。

「それは、そうだ」

そのあと二人は時計の症状を話した。毎朝八時に十分ほど止まり、それから動き出すという。澪は巻き上げの加減と、置き場所の傾きを尋ねた。宮野が帰るとき、いつもの長い世間話はなかったが、扉のところで振り返った。

「遅刻したことも、あったね。修さん」

澪はうなずいた。立派だという言葉の中から父を出してやることは、裏切りではない気がした。

夜、母の手紙を机に並べた。十二の鐘を一つ遅らせて。正午の検査鐘に関する指示だとわかったいまも、その字はよそよそしかった。なぜ直接説明しなかったのか。自分が生きている間に、どうして一緒に水路へ行かなかったのか。

手紙の余白に、澪は問いを書きかけた。けれど、母の紙に自分の言葉を足すのをやめ、別の紙を出した。

母さんは何を怖がっていたの。

それを書いてから、少し下にもう一行書いた。

私は何を聞くのが怖かったの。

答えは出なかった。澪は二枚を重ねず、机の左右に置いて灯りを消した。

十月八日、役場の会議室には、暖房を入れるほどではない冷気がこもっていた。律が持ってきた図面を広げると、端が丸まって机から浮いた。航が資料袋を重しに置いた。

担当の高梨は四十代半ばの職員で、澪の来店客でもあった。腕には澪が去年修理した時計をつけている。高梨は挨拶を済ませると、計画の説明資料を机に置いた。

「まず、廃止が決定したと受け取られているなら、そこは訂正したいです。案の検討中で、着工の契約はまだです」

「では、変更できるんですね」

澪が尋ねると、高梨はうなずいた。

「必要があれば。ただ、何が必要かを判断する資料が要ります」

律は昨日撮った写真を開いた。盛り土、橋の管、管口を塞ぐ枝の束。高梨は一枚ずつ拡大して、場所を聞いた。

「ここ、道路の下ですよね」

「管理道です。計画の基になった図面では、開いた断面になっています。現状は二本の管です」

高梨は図面の右下を指で押さえた。

「この原図、昭和の終わりの測量です。補修後の図面も探したんですが、同じ綴りにはなくて」

高梨は二つの分岐を指した。

「旧水門は住宅側の枝水路を閉じる門です。迂回水路の取入口は別で、後年、遠隔操作と非常用電源を備えた設備に更新しました。機能の点検と、下流が水を受けられるかの確認は必要です」

「どこまで現況に合わせたか、わかりますか」

「入口と出口の高さは、前の委託で見ています。途中の断面は、元の数字を使ったかもしれません。確認します」

高梨は言い訳を続けなかった。隣の机から別のファイルを持ってきて、委託業務の項目を読み始めた。澪は、誰かが責任を逃れようとする場面を身構えていた自分に気づいた。目の前の人は、見落としがどこにあるかを探していた。

律は紙に谷の断面を描いた。

「通常の水量なら管で流せても、増水時には両側の平場も水の通り道になります。いまは盛り土と管理道がある。この上に入口の絞り込みを加えたとき、水がどこへ回るかを確認したいです」

「既存の検討では、余った分は下流へ流れる想定になっています」

「その下流への道が、いまも同じだけ開いているかが問題です」

高梨は写真と断面図を見比べた。

「迂回水路を使わなくする理由は、維持の手が足りないことです。草刈りも、土砂の片づけも、毎年は追いつかない。それで管へまとめる案になった」

「整備すること自体を止めたいわけではありません」

律が言った。

「管理しやすくするなら、なおさら、どこを管理しないと危ないかを図面に入れる必要があります」

航が工事写真の一覧を差し出した。朝、開館前に別の保管棚を確認してきたのだという。

「十二年前の管理道補修に、該当しそうな写真があります。原資料は役場の保管なので、こちらで照合をお願いできますか」

高梨が一覧を見て、頬に手を当てた。

「この番号なら倉庫です。午後、出せます」

「十八年前の事故の資料も、測定の記録として使いたいんです」

澪が言うと、高梨の手が止まった。

「お父さんのことですね」

「はい。でも、父の名前を計画に使ってほしいわけではありません。その日に何時に水が来たか、どこが流れたか、わかるところだけを」

高梨はゆっくりうなずいた。

「被害の記録として扱います。個人名をどこまで出すかは、分けて確認しましょう」

澪は持ってきた封筒を開いた。父の名前が書かれた資料を、初めて誰かに自分から渡した。渡したあとも、父が薄くなることはなかった。

午後には、律と高梨が一緒に現地へ出た。役場の保管庫からは、管理道の補修写真が見つかった。工事そのものは適切に記録されていたが、水路整備案に添付された図面へ変更が反映されていなかった。別の目的で作られた資料が、同じ谷を違う形で残していたのだ。

澪は店に残り、柱時計を分解した。八時に止まるという訴えを確かめるには、その時刻を待つだけでは足りない。歯車を進めると、時打ちの機構の一か所で抵抗が強くなった。薄いばねの曲がりだった。澪は手を止め、昨日の管口を思い浮かべた。普段は動く。だから、問題がないように見える。負荷が重なる位置でだけ止まる。

電話が鳴った。律だった。

「いま、少し話せますか」

「はい」

「写真で盛り土の時期は確認できました。谷の断面も、前の図面より狭くなっています。ただ、どれだけ流せるかは、今日の寸法だけでは出せません」

「計画は?」

「現況の確認が済むまで、検討を止めてくれるそうです。高梨さんが上司へ説明します」

澪は受話器を握り直した。

「よかった」

「でも、これで安全になったわけではありません。計画前からあった狭さは、そのままです」

「うん。いまの谷は変わらない」

「そうです」

律の声から、わずかに緊張がほどけた。澪が同じ意味で受け取ったことを確かめたのだろう。

電話を切ったあと、澪はばねを直した。ゆっくり進めると、歯車は問題の場所を越えた。けれど、一度動いたからと裏蓋は閉めず、実際の時刻で動かすための台へ置いた。

夕方、航が店へ来た。鞄から、事故当日の町内放送の記録を出した。

「これ、放送した文章じゃなくて、放送を頼まれた時刻の控えだった」

澪は顔を上げた。

「ずれがあるの?」

「実際に流した時刻は、別の帳面。四分違う。誰かが間違えたというより、書いてる意味が違った」

紙の上で四分は短かった。時計の針なら、見ている間にも過ぎる長さだ。だが上流から盆地まで十一分なら、その四分は小さくない。

航は机の上に時刻を並べた。サエが水位計の異変を知らされた時間は正確に残っていない。父が灯台へ着いた時刻も幅がある。放送依頼と放送実施、避難した人が家を出た時刻、旧水門付近で大きな音を聞いた時刻。確かな数字の間に、薄く鉛筆で幅を描いた。

「無理に一本の線にしない方がいいと思う」

航が言った。

「父さんの行動も、ここからここまでは確認できる。でも、その間に何を考えたかは書けない」

澪は、父の最期の瞬間がわかれば何かが終わると思っていたのかもしれない。けれど、人が考えたことを正確に知るための計器はない。母の沈黙も、サエの後悔も、同じだった。

「航、私、母さんに怒ってる」

弟は鉛筆を置いた。

「うん」

「でも、黙ってた理由を、一つに決めたくない」

「決めなくていいと思う」

「母さんが怖かっただけ、とか。私たちを守りたかっただけ、とか。そう言うと、わかった気になれるけど」

航は帳面の余白を見ていた。

「僕らも聞かなかった。姉ちゃんが悪いって意味じゃなくて、僕も。父さんの話をすると母さんが疲れるから、別の話をした。そういう日がずっと続いた」

店の奥で、試運転中の柱時計が鳴った。二人は自然に黙り、最後の音が消えるまで聞いた。正しい回数だった。澪は台帳へ時刻を記入した。

「明日、灯台へ行こう」

澪が言った。

「母さんが残したものを、秘密のままにしないために」

十月九日の午前、灯台の階段には湿った落葉が貼りついていた。航が一段ずつ箒ではき、澪が下で集めた。サエはいつもの場所に座って、窓枠の水滴を布で拭いている。律は役場との約束で午後に来ることになっていた。

澪は母の手紙をサエに見せた。原本は透明な袋に入れ、指で押さえずに読めるようにしてある。

「母は、この十一分のことを知ってたんですね」

「知ってた。修さんがいなくなってから、何度もここへ来た」

「計器を見るため?」

「それもある。最初は、ただ座って帰る日もあった」

澪は窓辺の椅子を見た。座面の布の端だけが新しかった。誰かが破れを縫い、違う布で補っている。

「私が、代わりにあの日死ねばよかったと言ったことがある」

サエは布を膝に置いた。

「紗季さんは、そんなことを言われても困ると言った。きつい言い方だったよ。けど、そのとおりだった」

澪はサエの横に立った。慰める言葉は浮かばなかった。母の声だけが、少し思い出せた。困るでしょう、と帳面から顔を上げるときの声だ。

「それから、何をすればいいか聞いた。紗季さんは、知ってることを書いてくれと言った。自分が来られなくなっても、ほかの人が読めるようにって」

サエは棚の低いところから、薄いノートを出した。表紙には水位計の点検とだけ書いてある。最初の数ページはサエの字だった。途中から母の字が加わり、欄の形が整っていた。

澪は一ページずつめくった。水位、時刻、天気、上流からの連絡。計器を見た時刻と、連絡を受けた時刻には別の欄があった。余白には、見ていない数値は書かない、とある。

「母さん、こんなことをしてたんだ」

航の声には、驚きより悔しさが混じっていた。

「私たちには、仕事だって」

「嘘ではなかったと思う」

澪は言った。母はこの町で暮らすための仕事をしていた。ただ、それを家で話すことはできなかったのだろう。できなかった理由を、いま代わりに決めることはできない。

ノートの最後の方は、記入の間隔が開いていた。母が体調を崩した頃と重なる。サエの字が震え、読み違えそうな数字には鉛筆で丸がついている。律が来てからは、写真の番号が併記されていた。

「これ、役場へ見せてもいいですか」

澪が尋ねると、サエは顔を上げた。

「見せるつもりで書いたんだ。遅くなったけど」

「原本はここに置きましょう。写しと、説明をつけて」

航が言った。

「どの計器で、どこを見た数字なのか。知らない人が読んでも、わかるように」

サエはノートの表紙を撫でた。

「知らない人が読むと思って書くのは、難しいね」

「僕も、仕事でいつも間違える」

航が答えた。

「知ってる場所は、つい『いつものところ』って書きたくなる」

澪は母の手紙をもう一度見た。十二の鐘。母にとっては明確な言葉でも、澪には謎だった。残したいことがあるなら、それを受け取る人が何を知らないかまで考えなければならない。母ができたことと、できなかったこと。その両方が、ここにあった。

午後、律は高梨を連れて来た。高梨は階段で息を整え、灯台の中を見回した。

「外からは何度も見てましたが、ここへ入るのは初めてです」

サエはうなずき、机の上を空けた。律が旧水門の時計式水位計の写真と観測記録を並べた。

律が写真を指し、水位計を説明した。十一分の遅れは故障の放置ではなく、上流水路の変化が盆地へ届くまでの時間を照合するために使われてきた。しかし時計だけを見た人には、時刻が間違っているように見える。計器のどの針が何を示すか、そもそも誰が確かめるのか、その説明が引き継がれていなかった。

「だから、いまの表示をそのまま町の基準にはできません」

律は言った。

「基準時刻と計器時刻を並べて記録して、上流と下流の観測を照合します。十一分も、いつでも同じとは限らない。水量や水路の状態で変わります」

高梨は写真の文字盤と、記録欄の時刻を見比べた。

「わかりました。使える情報にするには、読み方も一緒に渡さないといけないんですね」

澪は写真の横に仮の札を置いた。自分の店の値札用の紙に、基準の時刻、計器の時刻、観測者と書いてある。まだ正式な記録用紙ではない。旧水門の計器のそばにも、担当者に設置してもらうつもりだった。

五人で記録欄を確かめていると、高梨の電話が震えた。画面を見た彼の表情が変わり、いったん外へ出た。戻って来たとき、声は先ほどより低かった。

「十二日ごろ、強い雨になる見込みだそうです。まだ予報に幅はありますが、山の方もまとまって降る可能性があります」

窓の向こうには薄い日が差していた。澪は、その明るさを疑うのではなく、別の場所の雨を同時に考えた。灯台から見えるものだけが、この町に届くものではない。

「それまでに、全部調べられますか」

澪が律に尋ねた。

「全部は無理です」

彼は迷わず答えた。

「でも、わかっている危険と、まだ確認できていない箇所を分けて渡せます。迂回水路の現況、記録の時刻の違い、連絡先。それは今日からできます」

高梨が手帳を開いた。

「防災の担当へつなぎます。この場の話としてではなく、資料として受け取れるようにします。観測を続けるなら、誰が、いつ、どこまで行うかも決めましょう。増水してから現場へ出る前提にはしません」

サエは椅子から立ち上がり、ノートを机の中央へ置いた。

「私一人が知っていることにしないでおくれ」

澪はその横へ母の手紙の写しを置いた。父の事故記録も、航が一枚ずつ並べた。律は現地写真を開き、高梨は受け取る資料の一覧を書き始めた。

誰か一人の記憶が、町を支えているのでは足りない。誰か一人の後悔が、次の雨を止めることもない。澪は手帳を開き、今日の日付をいちばん上に記した。

窓の外で、風に動いた枝が壁を擦った。澪は基準の時計を見て、観測の時刻を記した。そして、写真を撮った時刻と計器の表示を、別の欄へ転記した。

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