金曜日の朝、真琴から電話があった。
「今朝、道子さんに言った? 階段の代わりが決まったって」
「決まってない。整備する方向で調べることになっただけ」
「うちへ来たお客さんが、新しい坂道ができるんだってね、と言ってた。十一月から通れると思ってる」
灯里は湯を沸かしかけた火を止めた。
「誰から聞いたんだろう」
「それを追っても、たぶん全部はわからない。今日、町の案内が出るんでしょう。そこをちゃんとした方がいい」
灯里は上着を羽織った。家の中に開きかけの箱が三つあり、机には母の台本が載っていた。昨日決めた、慌てず家を見るという予定は、午前九時になる前に崩れた。
役場の窓口で交通担当を呼ぶと、大庭も出てきた。説明文の最終確認をしているところだという。灯里は噂の内容を伝えた。
「こちらにも同じ問い合わせが来ています。道ができる、という部分だけ先に広がっている」
大庭は紙を渡した。表題は、旧駅北側連絡路の閉鎖について。第一段落に新しい通路の整備を検討中とあり、その下に現在の階段を三十一日午後六時で閉鎖すること、暫定の交通手段の利用方法が載っていた。
「一番上が、検討中だと読まれないかもしれません」
灯里が言うと、大庭は顔を上げた。
「検討中と書いてあります」
「新しい通路の話が先に来ると、できるんだと思って読み進める人もいる。いつから使えるか、今は決まっていません、と独立して書けませんか」
交通担当が、手元の紙に赤字を入れた。今は使えません。整備時期は未定です。灯里は、少し強すぎるかと思ったが、実際に未定なのだった。
「案内を出す側は、決まったことを上に書きたいんです」
大庭が言った。
「でも、使う側には、決まっていないことが必要な場合もある。今回はそうですね」
灯里はうなずいた。大庭が自分を納得させるためだけに言ったようには聞こえなかった。
暫定の小型車は、学校の利用者を対象に十一月の最初の二週間走る。その後も必要なら学校と町が協議する。工房の一般利用者には、予約型の移動支援の臨時の乗降場所を設ける。ただし前営業日までの申込みが必要で、運行できる枠に限りがあった。南の道路を歩く場合の経路図もあり、学校から駅前までの距離と勾配、歩道の狭い部分を示した。
できたものを見て、灯里は安心より先に、まだ足りないと思った。明日から急に工房へ行く人は、前日に予約できない。学校の車に乗らない生徒の帰り道は長いままだ。けれど、その不足を隠さず示した紙は、以前の十分という案内とは違った。
「この案内、問い合わせで変わる可能性はありますか」
「あります。更新日を付け、学校と工房へ差し替えを依頼します」
「前の版も、残してください」
大庭は少し笑った。
「今は、桂木さんが言わなくても残すつもりです」
灯里も笑った。自分がいなければ何も残らないと思うのは、また別の傲慢なのだろう。
窓口を離れる前に、大庭が声をかけた。
「音源の整理、追加の確認を来年度もお願いできるかもしれません。ただ、予算が決まる前に約束はできない」
「そのとき、条件を見て考えます」
「お母さんの資料だから、という頼み方はしません」
「ありがとうございます」
灯里は本当に、ありがたいと思った。母の娘であることから離れて、この町で受けられる仕事があるのかもしれなかった。
案内を売店へ届けると、道子はすぐに窓の古い紙を外した。新しい通路が十一月からできると聞いた、とやはり言った。
「私も、嬉しくて二人に話した。訂正しないと」
「誰から聞いたかは、もういいです」
「よくないよ。伝えた人には、私が言わないと。灯里ちゃんが全部の家へ行くわけじゃないでしょう」
道子は店の電話を持ち上げた。灯里は邪魔にならないよう外へ出た。伝言が広がったのと同じ道を、訂正も戻っていく。完全に同じ人へ届く保証はない。それでも、伝えた人がもう一度電話することには、灯里がきれいな放送を作るより確かな部分があった。
昼、家へ戻ると、母の台本が窓からの風で開いていた。灯里は一頁ずつ見直し、残すものを決めた。全部を町へ渡す必要はない。個人の趣味の台本には、家族の電話番号や買い物のメモが混じっている。母が余白に書いた「牛乳」「灯里、面談」といった言葉まで、町の歴史にすることはなかった。
一本の台本の裏に、小学校の発表会のプログラムが挟まれていた。灯里が四年生のときだ。自分の役名に赤鉛筆で丸がついている。
灯里はその日、母が遅れて来たことを覚えていた。舞台の最後に客席を見て、母の席が空いていると思った。後で来たと言われても信じず、写真にも写っていないから嘘だと決めた。母は「仕事だった」とだけ答えた。灯里はその言葉を、自分より電話を選んだ証拠として長く持っていた。
プログラムの下に小さく、後半から、と書いてあった。母は本当に来たのかもしれない。それでも、灯里が見た空席も嘘ではなかった。新しい紙が一枚見つかっても、子供の自分の寂しさが消えるわけではない。
灯里はプログラムを台本から抜き、別の封筒に入れた。母が悪くなかったという証明にも、母が悪かったという証明にもしなかった。自分の見えた範囲と、母のいた範囲が、少し重なった紙として残した。
夕方、真琴がパンを持って来た。灯里は荷物の間に椅子を二脚置き、湯を沸かした。台所の窓には夕日の色が薄く残っていた。
「明日、帰るんだね」
「午前中。階段の閉鎖にはいない」
「最後まで見なくていいの」
「最後って、どこだろう。案内室が壊れる日か、道ができる日か。全部までいたら、戻れなくなる」
真琴はパンの袋を開けた。
「それもそうね。私は毎朝ここで焼くけど、町の最後まで付き合ってるわけじゃない」
灯里は母のプログラムを見せた。真琴は、発表会の後に二人で校庭の銀杏の実を拾い、先生に怒られたことを覚えていた。母の空席より、真琴の家の車で送ってもらったときに車内が銀杏の匂いになったことの方を、彼女はよく覚えていた。
「同じ日だったんだ」
「そう。灯里、ずっと笑ってたよ。だから、寂しくなかったとは言わないけど」
灯里は笑った。記憶の中の自分も、一日中同じ顔をしていたわけではない。母を知るために帰ってきて、自分の過去の顔も幾つか増えていた。
真琴が帰った後、灯里は母の家をすぐには売らないと決めた。保存のために空き家にし続けるつもりでもない。冬の間は水道と屋根を点検し、来年の春に、使うのか貸すのか売るのかを考える。決めないことに期限をつけた。
最後に、母のカップを家へ持ち帰るのをやめた。資料室に渡す品ではなく、道子が店で保管してくれると言っていた。灯里はカップの中の鉛筆を抜き、包み紙でくるんだ。机の半円の跡は持っていけない。そのことが初めて、残念ではなく、当たり前に思えた。
夜、東京の依頼主から新しい仕事の相談が届いた。地域の人たちへの聞き取りをまとめる番組だ。灯里は、収録時の利用説明と、編集後に話者が確認できるかを先に尋ねた。細かすぎると言われるかもしれない。それでも、条件を聞く前に引き受けることはやめようと思った。
返事を待つ間に、窓の鍵を一つずつ確かめた。母が寝る前にしていたのと同じ動作だった。似ているから母に戻るのではない。似た手つきで、違う明日の支度をしていた。