翌朝、灯里は南の道を歩いた。
母の家から案内室までは十二分のはずだった。高校を卒業するまで、そう覚えていた。けれど北階段を使わず、町の案内図にある太い道をたどると二十七分かかった。途中に横断歩道が二つあり、信号を待つ間に上着の襟元へ汗が溜まった。道そのものは広く、歩道にもひびは少ない。悪い道だとは思わなかった。だからこそ、図面の上で距離が少し増えるだけに見えるのだろう。
午前九時、案内室の扉の前に、昨日の女の子がいた。今日は自転車ではなく、大きな平たい箱を背負っている。
「学校は?」
「振替休日。窯焚き当番だけ。昨日、名前を言ってなかったから」
白川結衣、十七歳。窯業学校の実習科の二年生で、母親と東の団地に住んでいると言った。灯里が名乗ると、結衣は案内室を見上げた。
「澄江さんの娘さん」
「母を知ってるの」
「電話で。小学校のとき、バスに忘れ物したから。有人案内が終わる前」
母に会ったことがあるかは覚えていないらしい。ただ、電話で泣いていたら「何色の袋」と聞かれたという。忘れ物は習字の道具で、結衣にとっては明日使えないことが大問題だった。母は一本前の便も次の便も調べ、夕方の運転手へ連絡した。
「袋、紫だったんです。電話だと色なんかいらないのに、聞いてくれて助かった」
灯里は返事を探しながら鍵を回した。母の親切を知る人に会うと、少し息苦しくなる。灯里が中学生のとき、母は職場で使うのと同じ声で、修学旅行の集合場所を三回確認した。親切とは別の名で、その記憶を持っていた。
相良はまだ来ていなかった。灯里はストーブの試運転をし、湯を沸かした。結衣は机の端へ箱を置くと、録音機を見つめた。
「これ、しゃべるんですか」
「中に入っている声を再生するの」
「今の案内より人っぽい?」
「人だから」
灯里が笑うと、結衣は真顔でうなずいた。
「じゃあ、言い間違いも入ってますね」
箱の中には、町の空き地を模型にした粘土の板があった。学校祭の展示で、焼く前のため乾燥させないよう湿った布をかけている。案内室の煉瓦も、北階段の三十六段も、爪の先ほどの大きさで作られていた。斜面の上には共同工房があり、その先に学校の門がある。
「階段、三十五段じゃなかった?」
「下の一段が舗装に埋まりかけてる。でも足を置くから一段です」
結衣は箱の蓋の裏に描いた地図を見せた。学校から北階段を下り、工房口の停留所へ向かう赤線。南の道路へ回り、駅前へ向かう青線。赤には徒歩九分、青には徒歩二十六分とあった。灯里は自分の歩いた時間に近いことに驚いた。
「自転車なら青でも間に合うでしょう」
「今日はこの箱です。毎日、自転車を持って学校に入れる人ばかりでもない。あと、バスの中に自転車は積めないから、帰りの団地の坂は結局歩く」
灯里は言いかけた言葉を飲み込んだ。早く出る、という解決は思いつくのに、授業が何時に終わるかを結衣は変えられなかった。
「学校に言った?」
「先生は役場に聞いてくれました。道路がなくなるわけじゃないので、って。町の交通アンケートにも書いたけど、階段は道路の欄に書くんじゃなかったみたい」
結衣は箱を閉めた。訴えるために来たのではない、というように、背中の紐を持ち直した。
「ここで新しい案内を作るなら、南回りの時間も書いてほしいです。乗れるふうに書かれると、遅れた人のせいになるから」
その言葉を聞いたとき、灯里の頭に七四番の沈黙が戻った。だが、二十六年前の録音を結衣に聞かせる理由はなかった。知らない人の声を、自分の驚きを共有するために使うことになる。
「測った時間、記録を見せてもらっていい?」
「私のは普通に歩いた時です。速い人は違うと思う」
「それも書く」
結衣は連絡用の紙に学校のメールアドレスを書いた。灯里は箱が重そうだったので運ぶのを手伝おうとしたが、乾燥中の作品は傾け方があると言われて手を引っ込めた。結衣は箱の角を胸に抱き、南の道へ歩いていった。窯焚き当番は午後からなのだそうだ。時間がある日は、無理に階段を使わない。それも灯里には新しく見えた。
相良が来たのは十時過ぎだった。修理用のベルトを町外まで取りに行っていたと言う。灯里は結衣の地図を机に置いた。
「北階段のことで、昔も何かありましたか」
「あります。狭い町ですから、何もない場所の方が少ない」
「昨日の録音の人が、バスに間に合わなかったんですか」
相良は鞄から紙袋を出し、交換部品を一つずつ並べた。
「一部分だけ聞いて、話を作らない方がいい」
「話を知りたいんです。勝手に作りたくないから」
灯里の声が強くなると、相良は手を止めた。窓の桟に置いた温度計が、日差しを受けて光った。
「有賀さんという人でした。名前は町の記録にもあります。今、どこにいるかは、本人に聞くまでぼくからは言えない」
「連絡は取れるんですね」
「連絡していいかを、まず聞きます」
相良はそこで口を閉じた。灯里には、秘密を守っているというより、触れたらほどける荷物を両手で支えているように見えた。
午前中は、棚全体の目録を作った。録音の内容を調べる前に、台帳をページごとに撮影する。番号が七四の次に七六へ飛んでいた。七五番の欄は空白で、紙の裏から薄くインクが透けている。破り取った跡はない。灯里は未記入と書いた。欠番、と書くには、何かが存在したと知る必要がある。
昼、売店で蕎麦を食べた。売店の主人、八代道子は七十を越えているが、釜の前では灯里より素早く動いた。灯里が母の整理をしていると話すと、道子は薬味を増やした。
「あの人の机、丸い跡があるでしょう。茶碗の跡」
「ありました」
「コーヒーだったのよ。家では飲まなかった?」
「胃が痛くなるって」
「ここでは濃いのを飲んだ。眠くなると、電話に出るのが怖いんだって」
母がコーヒーを飲む場面を、灯里は一度も見たことがなかった。家に帰るといつも麦茶か薄い茶だった。母の半分を知らないと思っていたが、半分という見積りさえ大きすぎるのかもしれなかった。
「有賀さんって、知ってますか」
道子が箸を置いた。質問がどこまで届いたかを、灯里はその手つきで知った。
「フルネームは」
「まだ、名字しか」
「なら、私が思ってる人と同じかどうか、わからないね」
道子は蕎麦湯を持ってきた。灯里はそれ以上聞かなかった。誰もが隠す町、と決めるのは簡単だった。それは一つの仕事を七日で片づけるのに都合のよい筋書きでもあった。
午後、七四番の後の年代から、完成音源を続けて聞いた。北階段の案内は一つもなかった。学校まで徒歩十分。工房まで徒歩六分。停留所からの距離は、平坦な地図の上をすべるように読まれていた。
灯里は一九九九年と二〇〇一年の案内を比べた。声は母、原稿の書式も同じ。ところが学校への行き方に、差があった。
一九九九年には「駅前から北の階段を経て十分」とある。二〇〇一年には「駅前から徒歩十分」となっていた。階段という名詞が消え、時間だけが残っている。
なぜかと相良に聞くと、彼は「そこは覚えていません」と言った。覚えていて教えないのか、本当に覚えていないのか、灯里には判断できなかった。それを判断できると思うこと自体が、声の仕事をしてきた者の思い上がりなのかもしれなかった。
夕方、大庭に電話をかけた。灯里は個人名を出さず、古い放送の徒歩時間と通路の扱いについて尋ねた。大庭は少しの間、キーボードを打った。
「交通関係は当時の協議録があると思います。ただ、今回の委託は音源の整理で」
「わかっています。北階段を使わないと、今も学校からバスに乗れない生徒がいます」
「それは学校から連絡が来ています。バスの時刻変更は、町だけで決められないんです。隣の市で鉄道との接続がある」
「階段の廃止を決める前に、時間は測ったんですか」
大庭の打鍵が止まった。
「道路として残す計画ではなかったので、交通影響の調査項目には入っていません」
「でも人が通っています」
「把握しています。桂木さん。知っていることと、調査に入っていることは同じじゃない。だから今、学校と調整している」
大庭の声に疲労が滲んだ。灯里は初めて、彼の机にも誰かの地図が何枚も載っているのだと想像した。しかし、それが結衣の地図を載せない理由にはならなかった。
「協議録を、見られる範囲で見せてください」
「申請方法を送ります。明日は資料室が開いています」
電話を切ると、相良が七四番のケースを見ていた。
「有賀さんに、連絡しました。話すかどうかは、まだ」
「ありがとうございます」
「灯里さんのお母さんを、悪者にも善人にも、急いでしないでください」
灯里は頬が熱くなった。自分が母をどうしたいのか、見透かされた気がした。
「私はただ、録音を整理したいだけです」
言い終えてから、その言葉がもう半分しか本当ではないことに気づいた。
夜、母の家で仕事用の音源を再生した。東京から届いた対談は、商店街の人たちが新しい店の話をするものだった。話者が五秒黙り、相手が次の質問をしかける。灯里はいつものように、その五秒を一秒に縮めた。聞きやすくなった。話者が答えに詰まった印象は薄れた。
だが七四番の二十三秒が、画面の外から見ていた。
灯里は変更を一つ戻した。五秒を残して聞き直すと、対談の話者は、自信を持って店を始めた人ではなく、迷いながらそれでも店を開けた人になった。その違いを、依頼主にどう説明するか。仕事の範囲という言葉は、電話の向こうの大庭だけが使うものではなかった。
灯里はメールを書き、沈黙を残す案と短くする案を並べて送った。相手がどちらを選ぶかはまだわからない。送信の後、台所で湯を沸かした。食器棚には、葬儀の後に残した二枚の皿しかない。コーヒーの器が一つもないことを、今度は少し悔やんだ。