千路が最初に秤の異変を告げてから六週間後の朝、川路は受付台を戸口から半歩だけ離した。
そこに人が立つと、次の人から秤の針が見えなくなる。仮の秤を使っていた間に気づいたことだった。帳簿を置き、椅子を入れ、立って皿を見る。まだ狭い。彼女は台の片端を持ち上げた。
「そちら、引いて」
葉菜が反対側を引くと、脚が床の石の継ぎ目を越えた。川路は腰を伸ばし、今度は客の位置へ歩いていった。
「これなら見える。背の低い人は、こっち」
受付台の前に描いた白い線を、雑巾で一本消す。代わりの線を引くのは、実際に人を通してからにした。
南棟三番の共同秤には、新しい台が据わっていた。古い木台は捨てていない。乾いた日の寸法と、雨が続いた日の寸法を記した札をつけ、衡器所の保管室に置いた。側板との接触痕には、触れてよい場所と触れてはいけない場所を分ける紙が巻いてある。原因を見つけた日に全てが済んだわけではなく、台を交換した今日も、捨ててよい理由にはならなかった。
新しい台の下では、床との間に細い光が通っていた。
沙和はしゃがんで、持ってきた鏡をその光の中へ差し入れた。葉菜が記録紙を傾けると、沙和は顔を上げずに言った。
「まだ書かない。向こう側も見る」
川路が裏へ回り、邪魔になる空箱を除けた。大工の納品札と、沙和の据付確認の紙は別の封筒に入っている。衡器所の検査表も別だった。三枚をまとめて一つの判にする案は、準備の途中で取りやめた。誰が何を見たかが、後からわからなくなるからだった。
七時まで、あと十分あった。
三津田は、厚い紙を挟める金具を倉から二つ借りてきた。一つで葉菜の検査表を板に留め、もう一つを川路へ渡した。川路は使用簿を開いたまま、表紙と今朝の頁を挟んだ。
「検査する者が読んだ数字を、そのまま書かないでください」
彼は川路に言った。
「こちらから見えた数字を、先に書くんですね」
「はい。それから照合します。違えば両方残します」
「私が間違えた場合も?」
「僕が間違えた場合もです」
川路は金具を頁の上端へずらした。時刻を書く欄が隠れていた。
以前なら、主任が読み上げ、補助が書き、受付が印を見て戸を開けた。今朝は川路の手元にも短い記録用紙がある。検査を通した側とは別に、窓口から何が見えたかを残すためのものだった。人手が一人増えたのではない。毎朝の仕事が増えた。その分、受付を始める時刻は少し遅れる。市場の役員からは、昨日も早くできないかと言われた。
七時ちょうど、三津田が時計を見た。
葉菜は最初の分銅を出した。中央、左手前、右手前、右奥、左奥。決めた場所へ一つずつ移し、針が動いた幅と、落ち着くまでの時間を見る。重い荷を想定した検査は、定めた組み合わせで別に行う。角に載せるたび、分銅の影も位置を変えた。
葉菜は数字を書く前に、川路の鉛筆が紙を離れるのを待った。
読みは一致していた。
次に沙和が、幅の広い検査荷を二人で運ぶよう指示した。中身の重さを別の秤で確かめ、包み方と底の広さを記した荷だった。皿の端へ広がる品を、中央の小さな分銅で済ませないために用意してある。持ち手を外し、誰の手も触れていないのを互いに見る。
針が止まった。
叩く者はいなかった。
葉菜は皿の周りを一周した。荷の端は床にも柱にも触れていない。台の隙間を沙和が確かめ、川路が窓口からの値を記す。下ろしたあとの零点も、すぐに片づけずに待って見た。
晴れている今日の検査で、雨の日も同じだと断言はできない。交換台については、納品前に湿った条件で確認した記録がある。それでも次の雨の朝には追加の確認をする、と三津田が欄外へ記した。予定した時刻と担当者まで書く。忘れなければ、という約束にはしなかった。
七時十九分、検査札を裏返した。
表に出たのは、使用できます、の文字だった。その下には以前より小さな字で、今朝の検査時刻と記録を見られる窓口が書かれていた。
川路は戸口の丸椅子を片づけた。
「お待たせしました。一番の方、どうぞ」
最初の荷は豆ではなく、補修に使う綿布だった。
トキはその袋を、両腕で抱えて運んできた。千路は隣を歩いている。肩から提げた鞄に、細く丸めた紙が一本差してあった。
「一番だとは聞いてないよ」
トキは受付の番号札を見て言った。
「先に並んだのは袖森さんだから」
川路が答えた。
「開けるために、呼んだんじゃないからね」
「わかってる」
トキはその答えを聞いて、袋をいったん荷置き台へ下ろした。共同秤の再開を祝う席へ来てほしいという話は、一度断っていた。布を売りに来るのなら来る。それが彼女の返事だった。今朝は買い手も、自分で決めている。
遠野屋ではない、小口の補修屋の女が袖をまくって待っていた。布を広げて織り目を確かめ、値の相談をし、袋の重さをどちらの負担にするか先に決める。トキは急いでいなかった。かといって、見守る人たちのために丁寧な商いを演じてもいなかった。
「ここは端が少し薄い。掛け布にはよくても、袋には向かない」
自分の布の一枚を指して言う。
買い手はその部分を指の腹で擦り、用途を考えたあと、別に折り分けてほしいと頼んだ。トキはうなずき、千路に空の袋を出してもらった。
葉菜は受付の外で待っていた。検査補助の胸札はいつものものだった。六週間の間に、資格が増えたわけでも、命じられる仕事が変わったわけでもない。今日は再開後の観察を担当する。数字を読む人の肩越しに、相手の顔を見ていた。
千路が袖から黄色い紐を出した。
結び目は二つあった。一つは前からある結び目で、もう一つは最近作ったらしく、端の糸が少しほつれていた。
「それ、置いてもいい?」
千路は川路に尋ねた。
「どこへ」
「袋の端の下じゃなくて、横。さっきここまで来てたって、わかるように」
紐を皿に載せて量るのではなかった。布を折り直す前の端の位置を、皿の外側から見える場所に示したいのだという。川路は荷を動かす前に、三津田へ確かめた。機械に結びつけず、可動部に近づけず、作業が済めば外す。置いてよい場所を指し示すと、千路はそこへ紐を沿わせた。
黄色い線の横で、袋の角がわずかにはみ出している。
「前のは、このくらいだった」
「今の袋の形を、書いておこうか」
葉菜が言うと、千路は首を振った。
「僕が書く。前のと同じっていうのは、わかんない」
鞄から取り出したのは、学校の使い残しの紙だった。白い裏へ皿を四角に描き、袋の丸い角を重ねる。線は曲がった。千路は一度消して、今度は実物と紙を交互に見ながら描いた。
葉菜は手を出さなかった。
描き終わると千路は、今日の袋、と上へ書いた。それから朝の日付も書いた。
値はトキと買い手の双方から見える場所で読み上げられた。
下ろしたあとの針が戻るまで、川路は次の札を呼ばなかった。補修屋の女は控えを受け取り、布の薄い部分を別にした分の値を確かめる。トキも自分の紙へ金額を写した。
「ここ、袋代を引いたあと?」
「引く前。こっちに分けて書く」
二人が数字を直している間、千路は黄色い紐を手に巻き戻した。秤が正しいかと、誰も彼に尋ねなかった。彼がうなずくことを再開の証明に使う者もいなかった。
「今日は動かなかった」
千路は自分から言った。
「見てた場所からは」
葉菜が続きをつけると、彼は少し考えた。
「見てた場所からは。ずっとは見てない。布を分けてたときは見てない」
「そう書けばいい」
「長くなる」
「紙はある」
川路が一枚差し出すと、千路は笑いかけたが、受け取らなかった。自分の絵の余白へ、小さな字で続きを書いた。
トキは控えを袋の内ポケットへしまった。売上とは別のポケットだった。
補償の書類は、もう家に届いている。早期の支払いを受ける分と、個別の検証を続ける分を選べる用紙で、トキは受け取れる分を先に受け取り、一件の照合を残す選択をした。全部が戻った、と印を押したわけではない。届いた金で、借りていた糸代の一部を返した。残った照合には日にちがかかる。その間に新しい布を織って売ることまで、待つつもりはなかった。
「帰り、帳場へ寄る?」
千路が訊いた。
「今日は寄らない。返事の日は来週だ」
「じゃあ、先に湯」
「荷を届けてから」
トキは空いた荷置き台へ次の人を招き、自分の袋を持ち上げた。千路は絵を二つに折り、川路に渡すか少し迷ってから尋ねた。
「これ、返してもらえる?」
「写しを取ってもいいなら」
「名前は裏に」
「そうする」
川路は彼の見ている前で裏返し、小さく名前を書いた。絵の表は、袋と皿だけの紙になった。
トキたちが荷を届けに出たあと、川路は受付台の下から薄い綴りを出した。
初日に使用を止めたときの紙から、代替の秤を置いた期間の案内、説明会で受けた質問、答えがまだない項目までが、日付順に挟まっている。葉菜は最後の紙へ、再開時刻を書き入れた。空白だった担当欄には川路が自分の名前を書いた。
「これで閉じるのは、使用停止の綴りだけ」
川路は紐を通しながら言った。
「照合の受付は、向こうで続く。間違ってこちらへ来た人も追い返さない。それでいいね」
「はい」
葉菜は一枚目をもう一度見た。朝七時の検査を通した記録の写しがあり、その後ろに、見落とした条件を記した紙がある。最初の紙へ新しい日付を上書きしてはいなかった。再開の記録にも、過去の取引を全て確定したという文はない。
川路は紐の端を切らず、少し余らせた。あとから紙を足す場合にほどけるようにしたのだった。
そのとき千路が一人で戻ってきた。忘れ物かと訊くと、鞄から今朝の絵とは別の紙を出した。父へ送る手紙の下書きだという。長期の赴任がもう少し延びると知らせが来て、それへの返事を書いていた。
「直った、って書いたけど、いい?」
千路は葉菜ではなく川路に尋ねた。
「今日の秤を見たことなら、自分で書けるでしょう」
「あと、トキさんが布を売ったことも」
「それも見たね」
千路は膝を折り、受付台の低い端を借りて書き足した。父に秤を調べてほしいと頼む手紙ではなかった。ここで何が起き、自分がどこにいたかを伝える手紙だった。書き終わると、紙をひらひら振って墨を乾かす。
「向こう、雨だって。こっちは晴れって書く」
外からトキに呼ばれ、彼は紙を鞄へしまった。葉菜が見送っていると、川路は綴りを棚へ立て、次の番号を呼んだ。
遠野周作が来たのは、九時を過ぎてからだった。
買付の列には並ばず、封筒を二つ持って受付の端へ立った。川路が手を空けるまで待ち、片方を出した。
「先週分の照合です。一枚、店の控えと合わなかった。赤で囲んである」
川路は封筒を開けず、受取簿の日時を記した。
「合わないのはどっち」
「まだわからない。こっちの数字を採ると支払いが少なくなる。だから、確かめる間は多いほうで預けると書いてきた」
「処理する窓口は奥。ここで約束は受け取れない」
「うん。受領だけ頼む」
もう片方は、買付係向けに店で作った手順の写しだった。川路はそれも受け取り、衡器所に渡す箱へ入れた。店の内側で何を決めても、共同秤の使い方を変える権限はない。周作はその説明を、もう受けている。
葉菜は窓口の横へ出た。
「荷が載ったまま台を叩かないという項目は、見せてもらいました」
「口で教えるだけにはしないことにした。俺の名前も入れた」
「新しい人が、どうして禁止なのか訊けるようにしてありますか」
周作はすぐに答えず、箱に入った封筒を見た。
「書いてないな。そこまでは」
「書く場所があるといいと思います」
「持ち帰って直す。今日の買い付けには、俺は入らない」
代わりの係が来るのかと葉菜が訊くと、周作は来る、と答えた。自分は今月いっぱい、店の記録と支払いの照合をする。買い付けを外されたことへの不満は、隠しきれず声に残った。けれど照合をほかの誰かへ押しつけてよいとも、思えなくなったという。
「帳面を見せると、怒る人がいる」
「そうですね」
「怒ってる人に、見せたんだから納得してくれって、言いそうになる」
言ってから、周作は封筒を握っていない手を開いた。
葉菜は、納得してもらうための言葉を渡せなかった。説明会で見た顔を思い出した。返金が決まっても帰り際にこちらを見なかった人もいる。あの人にいつ笑ってもらえるかは、仕事の予定表に書けなかった。
「次の照合日も、来てください」
「来る」
周作は奥の窓口へ向かった。呼び止めて握手を求める者はいなかった。受付に並ぶ人たちは、それぞれの荷と控えを持って順番を待っていた。
昼前、沙和は道具を布へ並べ、一本ずつ確かめて箱へ戻した。
「雨の日の確認、私がいなくてもやるんだよ」
三津田は日程を書いた紙を見せた。
「あなたの立ち会いがない日に、こちらで記録を取ります。比較は翌日で」
「直した者が毎回見てると、直ってほしいと思うからね」
沙和は鏡を最後にしまった。新しい台にも、先で手入れは要る。どこを掃除し、どこへ勝手に油を差さないかを、川路にもう一度確かめてもらう。知らない者が触れた場合は責める前に使用を止め、触れた場所を聞く。そこだけは葉菜も口を出した。
「叱られると思うと、黙ります」
「言ったから叱らないと、先に知らせておくんだね」
川路は札の裏へ短く書いて、受付から見える位置へ置いた。立派な文に直すのは後にした。
沙和が去ったあと、三津田は葉菜に休憩を取るよう言った。
「その前に、朝の表を」
「残りは僕が見る」
葉菜は紙を渡しかけ、朝の広い荷の欄を指した。
「ここは、川路さんの読みと私の読みを、別に綴じてください」
「わかっている」
三津田はそう言ってから、二枚を重ねずに机へ置き直した。
「僕にも、もう一度言ってくれていい」
葉菜はうなずいた。彼の印があれば安心してよいという、昔の楽さは戻らないだろう。かわりに、紙を重ねる手を途中で止めてもらえる。その小さな違いを、葉菜は覚えておこうと思った。
胸札が外套の内側に入りかけていた。彼女は端を直し、名前を外へ出した。
湯を買いに行くと、北口の老人が空の椀を並べていた。
トキと千路はもう帰ったあとだった。椀の一つだけ、底に糸くずがついている。老人はそれを摘まんで捨てた。
「今日は箱の重さを訊かないんですか」
葉菜が二銭を置くと、老人は彼女の足元を見た。
「持ってないじゃないか」
検査箱は南棟に置いてきた。葉菜は笑った。湯は熱く、昼の光で椀の欠けた縁が白く見えた。
飲んでいるうちに、通りの向こうから川路が手を上げた。急いでいる様子ではなかったが、葉菜を捜していることはわかった。椀を返して戻ると、小柄な男が申告票を手に座っていた。
「いま量った荷なんですけど」
男は紙を差し出さず、まず荷置き台を見た。
「数字がおかしい?」
川路が尋ねると、男は首をかしげた。
「数字というより、籠の持ち手が。置くときだけ、あの縁へ引っかかった気がして。外して量り直してもらったから、売買はそれで済んだんですが」
もう済んだ話ですよね、と言いかけた顔だった。
葉菜は立ったまま紙を受け取らなかった。隣の椅子を引き、自分も座った。川路は次の人を別の荷置き台へ案内する。男の籠は空で、折れた柳の枝が一か所、細い影を作っていた。
「どちら側から置きましたか」
男が右手を上げる。その手を見てから、葉菜は白い紙の中央へ皿の形を描いた。
「最初から聞かせてください。置く前に、どこを持っていましたか」
男は籠を引き寄せた。少し迷い、空の持ち手に指を入れる。
葉菜は、その手が動き終わるのを待った。