シルクコード図書館 · 小説の棚雨の秤 · 目次

雨の秤 · 全8章

六 署名のある紙

臨時説明会の日、葉菜はいつもより早く衡器所へ行った。市場の南口で千路に呼び止められてから、一週間が過ぎていた。窓を開けると、石の階段を洗った水の匂いがした。昨夜の雨は上がっている。作業机には、七日前の朝に使った検査表と、その後に書いた七枚の観察記録が並んでいた。

最初の一枚だけが薄く見えた。朝七時、南棟三番、共同秤。異常なし。文字は他の日と変わらないのに、その四字の周囲には紙が余っていた。

葉菜はその余白を切り取りたくなった。もっと詳しい言葉に置き換え、今わかっていることまで最初から含んでいたようにしたかった。筆先を墨につける前に、その気持ちを別紙へ書いた。訂正すべき測定値はない。中央に置いた検査分銅による値は、記載どおりである。ただし、その試験では使用中に起こる異常を見つけられなかった。

言葉にすると、自分をかばう文にも読めた。彼女は一行空けて、零点の戻り遅れを異常の兆候として調べず、所定の軽打で零に戻して検査を終えた、と付け加えた。さらに、布のように幅のある荷を置いた条件を試さなかった、と書いた。

紙の下に日付と時刻を記し、自分の名を書いた。柏木の木の最後の払いが、少し長くなった。

三津田が入ってきたとき、葉菜は原記録と追記を紐で綴じていた。

「それを配るのか」

「原記録の写しと、追記です。原本はここに残します」

三津田は外套を椅子の背へ掛け、立ったまま読んだ。読んでいる間に川向こうの鐘が鳴った。彼は追記の最後を指で押さえた。

「手順を作った者が、いない」

葉菜は顔を上げた。

「私の見落としなので」

「君が勝手に試験を省いたように読める。中央荷重を主とし、戻り遅れは軽打後に確認する。それで毎朝の検査を終えてよいとしたのは、僕だ」

主任は別の紙を引き寄せた。幅のある荷の扱いについて、日常の検査に十分な項目を設けなかった。戻り遅れの継続を整備の必要として扱う基準もなかった。彼の字は行末へ進むほど小さくなる。それでも書き直さず、下の行へ送った。

「二人の追記を付ける。片方だけを説明に使わないでくれ」

彼は印を押す前に、葉菜のほうへ紙を戻した。

「読んで。わからないところがあれば、ここで直す」

六年前には、そんな読み方をしなかった。葉菜が入所したばかりの二十一歳のとき、申告票へ先に異常なしと書いた。夕方に聞いた訴えを書き加えず、紙を閉じた。後日、釘の緩みが見つかったときには、自分で書いた相手の名さえ判読できなかった。確かめたつもりの短い文字と、聞いたのに残さなかった声が、違う場所に置き去りになった。今、彼女の机の上にあるのは、その日の紙ではない。けれど急いで綴じる指は同じだった。

葉菜は三津田の文を声に出して読み、軽打の前後を記録しなかったことも加えてよいかと尋ねた。三津田はよいと言った。その一語で済ませず、自分で一行を足した。

説明会は市場の共同倉庫の二階で開かれた。床板には荷を引きずった黒い筋があり、窓の下には空の籠が積まれていた。市の会議室を使う案もあったが、昼の荷受けを終えてから来る人が歩いて間に合う場所になった。椅子は足りず、川路が受付の丸椅子まで持ってきた。三脚だけ座面の高さが違う。

入口の机には閲覧用の紙を二組置いた。原記録の写し、異常を再現した条件、確かめられていないこと。名前のある使用簿はそこへ出さず、本人の取引を確認する机を階下に設けた。誰がいくら売ったかを知りたいだけの人に、帳簿をめくらせないためだった。

トキは千路と並んで来た。今日は布を持っていなかった。いつも荷を抱える右腕を左手で押さえ、窓から二つ目の席に座った。千路の膝には、小さな無地の紙があった。

葉菜は前夜に二人を訪ねていた。会で話してよいことを確かめるためだった。千路は、最初に十五に近く見えたこと、袋を載せたまま店の人が台を叩いたこと、針が十四へ下がったことを、自分で書いた。正確に十五だったとは書かなかった。葉菜が読み返すと、千路は「近いほう」と言い足し、紙のその場所に線を引いた。

名前を出してよいかと尋ねたとき、トキは甥を先に見た。千路は少し考え、名前は紙の中だけ、皆の前では読まないでほしいと言った。自分で前に立つのも嫌だった。知らない大人から、もう一度同じ動きをしてくれと頼まれるのが嫌なのだという。

葉菜はそのまま控え、本人がその場にいても発言を求めないこと、聞き取りを追加するときはトキを通して日を決めることを約束した。父親のことや家の事情を説明に含める必要はなかった。トキも、それについて補うことはしなかった。

会の始まる前、葉菜は二人の席へ行った。

「昨日の紙の三つだけ読みます。変えたいところはありますか」

千路は紙を一度開き、首を振った。

「僕が見たから直ったって、言わないで」

「直ったとは、まだ言えないよ」

「そういう話じゃなくて」

トキが手を出しかけ、引っ込めた。葉菜は千路の次の言葉を待った。

「僕がいなかった人の分も、同じ秤だったんだから」

葉菜はその文を会のための紙に書かなかった。口にしてよいと許された三つの観察とは別のものだった。自分の説明の仕方を直すために覚えておくと答えた。千路は膝の紙を畳んだ。

市の担当者は、机の上の水差しを脇へ寄せてから会を始めた。出席者は三十一人で、そのほかに途中で来て壁際に立った人もいた。売り手組合の役員、買付店の者、組合に入っていない売り手、市場の運搬人。遠野屋の周作は入口に近い長椅子にいた。帳場用の算盤袋を持ってきていたが、膝に置いたまま開かなかった。

三津田は最初に、南棟三番の使用を停止したままであること、代わりの秤は北棟の倉の庇に置かれ、使用料を当面増やさないことを伝えた。そこで誰かが、列が伸びて朝の便に間に合わない、と言った。川路は手元の紙を見て、翌朝から受付を二列に分け、計量を待つ荷の置き場を北側に広げると答えた。まだ異常の説明に入っていなかったが、葉菜にはその順序が必要だった。明日の商いができるかどうかが、まずここに座る人の問いだった。

沙和が幅の違う二枚の板を机に置いた。試験に使ったものとは別の、説明のための板だった。分銅を真ん中にまとめて載せる場合と、荷を広く載せる場合の違いを示したが、机の上で秤の挙動を演じはしなかった。

「湿った木台が膨らみ、内部の側板に触れた跡がありました。幅のある荷では力の掛かり方が変わる。そこで動きが妨げられ、側面を叩くと接触による抵抗が外れて、表示が低いほうへ移りました」

沙和は、一度言葉を切った。

「全ての荷で、同じだけ下がるとは言えません。乾いているときに同じ置き方をしても、同じ値にはなりませんでした」

「高く出ていたのが、正しくなっただけじゃないのか」

奥の席から声がした。

三津田は、その条件では叩いたあとの値も、対照の秤で確かめた荷の値より低かった、と答えた。ただし、過去の取引で叩く前に見えた数字が、いつも正しい重さだったと扱うこともできない。葉菜は二つの値が書かれた試験表を掲げ、試験の日と荷の形を読んだ。

「それじゃ、十四と書いたところを十五に直せば済む話でもないのか」

「はい。元の荷姿が残っていないものは、いまの試験で元どおりに量り直せません」

問いを出した男は、唇を舐めて手を下げた。自分の控えを持ってきていた。膝の上で、紙の角だけが動いていた。

葉菜は次に、朝七時の記録を読んだ。異常なし、という箇所で声が細くなった。息を吸い直し、追記を続けた。最初の検査記録は書き換えていないことも説明した。

「いまさら紙を残すのは、自分たちは当時知らなかったという証拠にするためか」

別の男が訊いた。

葉菜の指が胸へ動いた。札の角に触れる前に、手を机へ戻した。

「当時、何を見て、何を見なかったかが残らないと、検査の直し方まで曖昧になります。私が戻り遅れを見ていたことも、ここにあります」

「見ていたなら、知らなかったとは言えないだろう」

「兆候を見て、調べずに終えました。その責任は残ります」

三津田が立ち、手順の責任について読んだ。葉菜に代わって答えるのではなく、自分の紙を読んだ。誰かが腕を組み、誰かが写しへ目を落とした。納得したかどうかを、その仕草だけで決めることはできなかった。

補償の原案が配られると、部屋の空気は変わった。機械について質問していた人も、紙を裏までめくった。原案では、調査対象期間の幅広の荷による売却について、記録上の売買額に同じ率を掛け、一定の上限を設けて支払うことになっていた。率は再現試験の差から置いた暫定値だった。早く少額でも払うために、市の担当と組合の会計が作った案だった。

「私の紙はどこに出せばいい」

最前列の女が手を挙げた。葉菜が階下の確認机を案内しようとすると、女は首を振った。

「そこじゃない。この期間に、私は買う側でも使ってる。豆を共同で仕入れたから。そのとき得をして、布を売ったとき損したなら、両方書くのか」

組合の会計が返事に詰まった。原案は、売り手と買い手が入れ替わることを十分に扱っていなかった。

トキも紙を上げた。

「上限があるのは、どうしてですか」

「一件あたりの支払いを揃えるためです」

「一件しか売らない者と、荷を分けて何度も売る者で、揃いますか」

小さな咳が二つ聞こえた。トキは言葉を足した。

「私は、額を先に大きくしてほしいと言っているんじゃない。布をまとめたほうが運びやすかった。だから一袋にした。その一袋で切られる理由を知りたい」

市の担当は原案に鉛筆で印をつけた。奥では紙のない人が、記録を失くした者は一銭も受け取れないのか、と尋ねた。買付の一人は、広い荷のどれに接触が起きたかわからないまま率を掛けるのなら、故障と関係のない損まで店に請求されると言った。

周作はその声のあとに手を挙げた。

「遠野屋の使用簿は、ここへ写しを出します。叩いて値が下がるのを知っていて、扱いを変えなかったことも、前に申し上げたとおりです。ただ、帳簿の重さの横へ、あとから正しいはずの数字を書き足すことはできません」

「それを口実にするのか」

「しないために、支払う根拠と、わからないところを別にしたい」

声が重なった。葉菜には、周作の言い方に自分と似た逃げ道があるようにも聞こえた。だが、わからない値を事実として記すことを求めれば、帳簿は次の調査を妨げる。彼が責任を避けていないかどうかは、その一言では決まらない。何を差し出すかを見る必要があった。

組合の役員が、組合外の取引まで組合の積立金を充てる理由を問うた。そのとき、最前列の女が振り返った。

「共同秤を安く使えるよう、市にまとめて頼んだのは私たちでしょう。買うときに安く出た分も、私たちの仕入れに入っている。外の人だけが使って壊したみたいな言い方は困る」

役員は眼鏡を外して、鼻の付け根を揉んだ。反論の代わりに、積立金には今冬の倉庫修繕費も含まれ、そこを使えば屋根を直せなくなると話した。屋根の下には、組合外の売り手が荷を置く場所もある。それも一つの費用だった。

葉菜は、原案を今日決めて帰る予定の欄に、決定せず、と書いた。空欄を埋めるための短い言葉だったが、それで会を閉じるわけにはいかなかった。

三津田が担当者と相談し、日を区切って再び基準を出すことを提案した。複数の天候、複数の荷姿、対照の秤。その結果と、各人の記録を合わせる。作業中も申立ては受ける。待つことができない人のための支払いを、最終額の確定とは分けて考える。

「また二週間、何も来ないのか」

紙を失くしたという男が言った。

「申立ての受け取りは明日からです。受け取った日と、次に返事をする日を書いた控えを渡します」

川路が答えた。受付を一人で回せないことは、彼女自身がよく知っていた。

「誰が読む」

「市場の帳場だけにはしません。市と、売る側と買う側から一人ずつ出します。自分の店や自分の荷のことは、その人は判断に入りません」

提案はまだ名簿のない仕組みだった。会の終わりまでに、担当を引き受けられる者と時間を確認した。誰も毎日はいられない。午前だけ、三日に一度、週末なら。川路は紙を裏返して、一人ずつの来られる時間を書いた。

人が帰り始めたあと、トキは窓際に残った。千路は階段のところで、運搬人が椅子を重ねるのを見ていた。

「今日、紙を出したら、何かを受け取ったことになりますか」

トキが尋ねた。

「申立てを受け取った記録になります。補償を承諾したことにはしません」

「それを、受取の紙にも書いてください」

葉菜は頷き、手元の原案に線を引いた。口で言った約束を、窓口にいる別の者が守れるようにする必要があった。

「千路に話を聞いた日も、私が働けなかった時間があります。布の差だけの話にしたら、その時間は消えます」

「記入する欄を分けます。全部を支払えるかは、まだ決まっていません」

「それでいい。ないことにしてから話を始めないでほしい」

トキは持参した売買控えを出した。角に小さな針穴があった。布の型紙と一緒に綴じていたのだという。葉菜は原本を預かろうとして、手を止めた。写しを取り、原本は持ち帰ってもらった。数値の横に残る薄い染みまで、写しを見比べた。

階下で千路がトキを呼んだ。迎えの荷車が来たらしい。トキは紙を懐へ戻し、今日は会へ来るために織る手を止めたのだから、次は日をまとめてほしいと言い残した。

葉菜は会場へ戻った。使われなかった椅子の脚の下に、折れた鉛筆の芯があった。拾って机に置くと、川路が空の水差しを持ってきた。

「決まらなかったね」

「はい」

「でも明日の仕事は増えた」

皮肉ではなかった。川路は紙の束を半分持ち上げた。

「受取の文を先に作ろう。明日の朝に人が来てからじゃ遅い」

葉菜は階段から戻る足音を聞いた。三津田だった。市の担当を見送っていた彼は、机の上の署名された二枚を確かめ、説明会で出た異議も一緒に保管すると言った。

葉菜は自分の名のある紙を、その束のいちばん上へ置かなかった。朝七時の短い記録を先にし、追記、試験表、異議の順に揃えた。どれか一枚だけで、この一週間を説明できるものはなかった。

窓の外で荷車の輪が石の継ぎ目を越えた。会の前には乾いていた道の端に、まだ小さな水溜まりが残っていた。

夕方、受取票の版下を持って印刷係へ行くと、係は欄が多すぎると言った。小さな紙に収めれば字が潰れる。大きな紙なら一束で使う量が倍になる。葉菜は用紙を机へ並べ、氏名の欄を詰めようとした。

「そこを削ると、名前の長い人が困るよ」

係は活字の入った箱を閉じた。葉菜は申立ての内容を別紙にし、受取票には受付番号と連絡の方法、次の返答日、未決である旨を残した。相談に来た人の住所を書けない場合は、取りに来る日を決める。市の帳場を訪ねることのできない人には、市場で渡す。その二つを小さな四角で選べるようにした。

版下を見直していると、三津田が窓口の担当名を書き入れた。葉菜は担当が休んだらどうなるかを訊いた。彼は一度書いた個人名を消し、衡器所内の受付係という職名に直し、日ごとの当番表を別に置くことにした。人が替わるたびに約束の先まで消えてはならなかった。

印刷係が試し刷りを一枚寄越した。葉菜は申立人の側に回り、自分の住所を書き、控えを受け取ったふりをして読んだ。何を待てばよいかはわかったが、断られたときどこへ行けばよいかがなかった。再確認を求める窓口の行を足すと、紙は予定より縦に長くなった。

「これで刷るかい」

「今夜は五十枚を。明日の使い方を見て、残りを頼みます」

一度に全てを刷れば安かった。けれど、使ったことのない紙を完成したことにするのは、朝七時にしたことと近かった。葉菜は費用の差も帳面に書いた。紙を変えると決めた自分の名前を、その隣に記した。

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