シルクコード図書館 · 小説の棚雨の秤 · 目次

雨の秤 · 全8章

五 差額の行方

川路が使用簿を運んできたのは、その日の昼だった。

四冊を腕に載せ、いちばん上の一冊だけを顎で支えていた。葉菜が受け取ると、赤い布の表紙が掌に貼りつく。濡れたのではなく、手汗だった。

「外へ持って出たことがなくて。何か落としたような気がする」

川路は受付で使う短い鉛筆も置いた。

「今日の分は北にある。これは昨日まで。古いのは倉だけど、同じことしか書いてないよ」

同じことしか、という言葉を確かめるため、葉菜は最初の冊子を開いた。売り手、買い手、品名、重量、時刻。紙の上には秩序があった。一つの欄を使えば、布も豆も紙も同じ大きさになった。

針が最初に示した数を書く欄はない。叩いたかどうかを書く欄もない。荷が広いか、中央へ寄せられたか、売り手が異議を言ったか。どれも、使用簿には求められていなかった。

葉菜は別紙へ、記録にあることと、ないことを分けた。

三津田は机の反対側で四冊の日付を見た。

「この機械が今の台になったのは、いつだ」

「修繕票を出してもらっています」

「最後に正しかった日が見つかれば、そこからにできるが」

葉菜は顔を上げた。三津田も、自分の言葉を聞き直したようだった。

毎朝の検査札はある。しかし、中央の分銅で通っていたという記録は、今回確かめた異常がなかった証明にはならない。

「最後の合格日では、区切れません」

彼が言い直した。葉菜は頷き、最初の冊子の表紙に付箋を置いた。調査開始の範囲は、まだ仮のものだった。

遠野屋の帳場では、周作が荷札を数えていた。

店先の庇に、糸でくくられた布の束が並んでいる。どれも買ってきたときの形ではなかった。幅を揃えて畳み直し、傷のあるものは外へ分け、同じ織りの束へ足す。トキの布が混じった束はわかっても、元の袋に戻すことはできない。

葉菜は店の奥へ入る前に、今朝の試験結果を周作へ渡した。故障の疑いが強まったこと、当日の取引量の復元はできていないこと。その二つを別々に書いた紙だった。

周作は紙を読み終え、もう一度、低い表示へ移ったという行を読んだ。

「俺が叩いたのは、ここです」

彼は紙の見取り図へ指を置いた。葉菜が試験した位置と大きく違わなかった。

「それは、聞き取りに残します。今、書いてよいですか」

「もう書いてあるでしょう」

「前に聞いたことはあります。今日は、この図を見て答えたこととして残します」

周作は椅子を引いた。座らないまま、背に両手を置く。

「これで俺が、差を盗んだことになるんですか」

「あなたが何を知っていたかを、まだ聞いていません」

「知らなかった、と言えば終わりますか」

「終わりません」

声が硬すぎた。葉菜は紙を机の中央へ置き直した。

「知らなかったことと、見ていたことを、分けて聞きたいんです」

周作はしばらく椅子を押したり引いたりした。脚が床板の継ぎ目に引っかかり、そのたび止まる。

「高いところで止まることは、知っていた」

ようやく言った。

「それを叩くと、下へ行くことも」

「いつからですか」

「買付に回されたころから。七年前だと思う。前に担当していた人が、針が噛むから一度落として読めって」

「落として、というのは?」

「針を。手で触るんじゃなくて、横を打って。そうしたあとのほうが正しいんだと思ってた」

葉菜はその言い方をそのまま書いた。思っていた、の主語を彼の名前にした。

「上へ戻った場合は?」

周作は椅子を動かすのをやめた。

「何も載っていなければ、零へ戻る」

「荷を載せた状態で、打ったあと高くなったことは覚えていますか」

「……覚えてない」

彼は自分の指を見た。荷札の赤い染料が、人差し指の爪に残っていた。

「覚えてないと書いてください。なかったとは言えない」

葉菜は書いた。周作はそれを読み、頷いた。

奥の部屋で誰かが咳をした。店主がいるのか、と葉菜が視線を動かすと、周作は入口の簾を下ろした。

「俺の仕入れは、値段だけ見られます。同じ布を、去年より何銭安く買ったか。雨の朝に早く行けと言われる。帰り道が長い人は、残るより売って帰るほうを選ぶから」

「そう言われたことは、帳面にありますか」

「言葉で言われることを、全部帳面にはしない」

周作はそこで、乾いた笑いを漏らした。

「そっちも、そうでしたね」

葉菜は筆を止めた。責め返す言葉は思いつかなかった。朝の検査で何を見なかったか、彼女の表にも空白があった。

「私のほうも、書く必要があります」

「俺が安く買ったぶん、店は儲かった。でも、これで俺の給金が一斤ぶん増えたわけじゃない」

「給金へ直接入らなくても、店が受け取った品は増えた可能性があります」

「わかってる」

周作は急に声を上げ、それから簾を見た。

「わかってる。俺の手にないから知らない、とは言ってない」

葉菜は頷いた。彼の苦しさを、荷の不足分へ換えることはできない。だからといって、荷の不足を調べるのに彼の立場が無関係とも言えなかった。

周作は買付控えを持ってきた。全部を渡す権限はないと断り、該当する取引の行を一緒に確かめると言った。葉菜は売り手の名を隠さずに受け取る必要と、無関係な取引を持ち出さない扱いを説明した。二人で一行ずつ写し、原本の頁と位置を添えた。

トキの行には十四斤とある。帳面と使用簿で数字が一致しても、それは同じ針を二人が書いた結果だった。二つの紙があることは、二度量ったことにはならない。

午後、袖森トキが持ってきた控えは、布包みの内側へ縫いつけるようにしまわれていた。

葉菜は彼女の家へ行かず、北口の茶屋の隣の空き部屋を借りた。人の出入りからは見えにくく、トキが帰りの荷車へ乗るまでに話せる場所だった。千路は来なかった。今日必要なのは、トキ自身が何を差し引かれたと思っているか、その言葉だった。

「十五斤に戻せばいいんですか」

トキが訊いた。

控えを出してから、彼女はずっと葉菜の顔を見ていた。

「まだ、その計算はできません」

「千路が十五に近かったと言った。それでも?」

「針が打つ前に高いところへ止まったことは、試験でも起きました。ただ、その最初の数が正しいとは限らなかったんです」

トキの指が控えの角を押した。折り目が白くなっている。

「だったら、何もわからないのと同じじゃない」

「機械に問題があったことと、あなたの布がいくらだったかは、同じところまでわかってはいません」

トキは目を閉じた。部屋の外を荷車が通ると、湯呑の水面が震えた。

「ここへ来るまでに、頭の中で使ってしまったんです。一斤ぶんの代金を。余り糸を買って、借りを返して。戻るかもしれないと思ったら、戻る前に使う順番を考えた」

葉菜には、数字を約束していないと言い返すことができた。けれど、秤の異常を知らせに行った自分が、相手の暮らしへ何を持ち込んだかを、それで消せるわけではなかった。

「すぐに取り戻せるように聞こえたなら、私の説明が足りませんでした」

「取り戻せないように聞こえるのも、困る」

トキは控えを離した。

「わからない、の次に何をするか、それを聞きたい」

葉菜は持ってきた白紙を広げた。今わかることを増やすため、過去の売り方を聞く。範囲を区切って取引を調べ、補償の相談の場を作る。決める権限は自分だけにない。そのことも言った。

トキは聞いたあと、白紙に自分の指で線を引いた。

「ここを、あなたの持ち帰る話と、私に答えを返す日に分けて」

葉菜は線を筆でなぞった。右側へ、説明会の予定を確かめて連絡する、と書いた。

トキの記憶では、あの布は家を出る前に量っていなかった。借りられる小さい秤では一度に載らず、分けて量ると束の紐や袋を何度も勘定することになる。前の月に似た量を売ったときは十五斤だったが、同じ糸の量でもないし、乾き具合も違う。

「似ているというだけで、十五にしないで」

トキは最後に言った。

「私がそう言ったことになったら、次に違うと言えなくなるから」

葉菜は欄外へそのまま書いた。今日初めて、トキが控えへ触れる手の力を抜いた。

帳簿を調べ始めて二日目の午後には、衡器所の作業台が紙で埋まった。

川路の使用簿、遠野屋の控え、売り手から預かった小さな売買票。修繕票は、市の物品係が紐をかけて持ってきた。木台を替えたのは三年前だった。取り替えた直後の測定値と、木材の状態を示す記録はなかった。

「三年前から全部、という話になるのか」

三津田は修繕票を裏返した。

「そう書く根拠もありません」

葉菜は答えた。古い木台の記録がない以上、その前は正しかったとも言い切れない。調べる期間を広げるほど、確かさが増すとは限らなかった。遠い時期の雨や荷姿は、紙の上から消えている。

川路が湯を運んできた。湯呑を置く場所がなく、三津田が書類の山を一つ持ち上げた。

「それは終わった分?」

「まだ分けていない分です」

「こっちの小さい山が終わった分?」

「その人から返事がない分です」

川路は盆を持ったまま黙った。葉菜は机の端を空けた。

返事がないことと、異常がなかったことを一緒の山へ入れない。重さが書かれていないものと、零だったものを同じ欄にしない。手を動かしていると、その小さな区別に一日の大半が費やされた。

使用簿の初日の十一件について、葉菜は一覧を作った。遠野屋が買った七件のうち、荷姿まで思い出せたのは四件。側面を打ったと誰かが答えたのは三件。答えが食い違ったものは、そのまま二つの答えを載せた。

七件全部に同じ割合を掛ける案は、線を引く前に止まった。買い手の名が同じでも、皿へ置かれた荷の形は違う。試験で生じた幅を、そのまま昔の全取引へ配れば、説明できない数字が整然と並ぶだけだった。

三津田が、空いた紙へ三つの囲みを描いた。

「機械の問題が確認された期間。疑いを申し出られる期間。金を出す範囲。全部、同じにする必要はないのかもしれない」

葉菜は囲みを見た。どれもまだ空白だった。

「でも、違う理由を説明しないと」

「ああ。金を出すから正しかったことにする、という紙にもできない」

川路は盆を下ろした。

「名前を出せない人もいるよ。次から買ってもらえなくなるって」

「その受付も要るな」

三津田は四つ目の囲みを足した。紙の上の空間が足りなくなった。

その夕方、組合の倉で話を聞いたのは、豆を扱う年配の売り手だった。

彼は使用簿の自分の名を見ると、重さは合っていた、と言った。葉菜が尋ね返す前に、手を横へ振る。

「合っていたというより、損した覚えがない。俺はあそこで買うこともある」

倉の奥では、若い作業員が豆を篩っていた。乾いた粒が木の枠へ当たり、会話の切れ目を埋める。

「袋ごと仕入れて、ここで選り分ける。叩けば下がる。そういうもんだと思ってた」

「買うときも叩いていましたか」

「相手がしなければ、こっちがする。手間のかかる秤だ、って」

葉菜は筆を持ち直した。遠野屋だけを見ていた一覧の外へ、別の買い手の名が出てきた。

「売る側に回ったときは?」

「だから、知ってる相手には、そこで量らせない」

売り手は言ってから、入口を見た。葉菜の後ろに、川路が立っていた。彼女の顔色が変わった。

「それを受付に言ってくれていれば」

「言って何になる。ここの組合で金を出した機械だ。直すなら、また組合費が上がる」

「市も出してるよ」

「市が出せば、誰の懐も痛まないのか」

川路は黙った。葉菜は二人の間へ、使用簿の写しを置いた。

「今、確認したいのは、どの取引で、どう使ったかです。費用の話も消しませんが、同時に決めることはできません」

売り手は面倒そうに椅子を引いた。彼の覚えている取引を聞くと、記憶は途中で何度も揺れた。去年か今年か、南棟か店の秤か。確かでない箇所へ印をつけると、彼は不機嫌になった。

「そんなに疑うなら、もう何も言えない」

「疑う印ではありません。あとで、あなたが確かだと言っていないところを、私が確かだったことにしないためです」

彼は印の意味を聞き直し、最初の二つを自分で指した。

「そこは、年が違うかもしれない。でも叩いたのはここ。俺もやった」

川路は戸口から離れ、空いた椅子へ座った。受付で使う鉛筆を取り出し、自分が相手にしたことも書き始めた。

帳簿を調べ始めて三日目の朝、南棟の縄の前に男が二人立っていた。

機械が使えないから来たのではなかった。北の代替秤へ行く途中で、貼紙を読んでいた。一人は組合員、もう一人は組合に入っていない紙漉きだった。

「組合の金で作った場所で、組合の者だけが悪いみたいに言われたら困る」

組合員の男が言った。葉菜は貼紙を読んだ。故障の確認と使用停止、問い合わせ先。それ以上は書いていない。

「誰からそう聞きましたか」

「ここに書いてないから、余計にみんな言うんだよ」

紙漉きの男は、隣の顔を見ずに続けた。

「俺は入ってないから、そのみんなの話も、あとでしか聞けない。金が戻るって話だけ回ってきた」

葉菜は二人に、まだ金額も対象も決まっていないことを伝えた。紙漉きの男は荷車の紐を引っ張った。

「決まった人から、先に戻るんじゃないのか」

「先着順にはしないよう、会議へ出します」

「するな、って言える人は誰だ」

葉菜は答えを探さず、三津田の名と説明会の連絡先を書いた紙を渡した。その場で決められないことを、自分の善意で埋めようとすれば、また消える約束になる。

二人が北へ行ったあと、葉菜は貼紙の下へ一枚足した。調査は組合への加入にかかわらず申告を受け付ける。現時点で補償額は未決定。記録がなくても相談できるが、記録の有無と確かさは分けて残す。三津田の確認印をもらうため、紙の端だけを仮に留めた。

そのとき、周作がやって来た。帳場から持ってきた綴りを脇に抱えている。

「店の許可が出ました。該当する日の写しです」

葉菜が受け取ろうとすると、彼はもう一枚、折った紙を差し出した。

「これは俺のです」

買付の指示を書き留めた私用の手帳の写しだった。値段の目標、その日に集める品、遅い荷は断ってよいという覚書。秤を叩けとは、一行も書いていなかった。

「これで、店が命令した証拠にはなりません」

周作は言った。

「俺がどういうつもりで朝早く買いに来たかは、これを見たほうがわかると思って」

葉菜は受け取った。周作の指が、紙から離れなかった。

「叩いて、低くなれば得だとは思ったことがある。毎回考えていたわけじゃない。でも、そう思った日がないとは言えない」

前の日の答えと違う、と葉菜は指摘しなかった。前の日の紙を消さず、新しい時刻を入れた。

「そのことも、読んで確かめてもらいます」

「俺の名前で」

「はい」

周作はようやく紙を離した。

夕方、葉菜は三津田の前へ暫定の報告を置いた。

雨のもとで広い荷を載せたとき、木台と側板の接触が観察され、表示が拘束される場合がある。軽打で拘束が外れ、低い表示へ動く例を複数記録した。中央の分銅での合致だけでは、これを見つけられなかった。そこまでは、測定の紙を添えられる。

過去の取引で同じ異常がどれだけ生じたかは、確定できない。荷姿と環境、操作前後の値が欠けている。使用簿の重量欄は、損失額を計算するための正しい量ではなく、そのとき採用された値である。

補償をしないという結論も、その欠落だけからは導けない。葉菜は最後の一文を二度読んだ。筆を運ぶ速度が、そこだけ遅かった。

「これを書くなら、次に何をするかを載せよう」

三津田が言った。

葉菜はトキとの紙を出した。答えを返す日を分けて書いたものだった。

説明会を開く。申告の窓口を用意する。買い手、売り手、市の記録を突き合わせる。対照の秤で今の荷を比べる調査案を作る。ただし、今の試験の幅をそのまま昔の損失と呼ばない。

暫定案の欄に、川路は受付の増員を足した。三津田は機械と検査手順の費用負担を別に挙げた。周作の写しは、測定記録とは別の綴りに収められた。

「これ、全部は読んでもらえないね」

川路が言った。

葉菜は紙を見た。三日の間に増えた言葉は、知ったことと同じくらい、知らないことの形をしていた。

「最初に一枚で渡す説明も作ります。詳しいものは、見たい人が見られるように」

「数字のところを、大きく書きな」

「まだ決まっていません」

「決まってないって、大きく」

葉菜は頷いた。

窓の外では、北棟から最後の荷車が帰っていった。荷台に布の束がある。その重さをここから知ることはできない。葉菜は知らせる日付を書き、三津田へ確認を頼んだ。紙の末尾には署名のための空白がある。誰もその空白を、もう飾りだとは思っていなかった。

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