秤が狂っている、と最初に言ったのは子どもだった。
葉菜は、その言い方を覚えている。疑う声でも、何かを要求する声でもなかった。昼になった、と告げるような、変えようのない事実をただ置く声だった。
市場の南口には長い庇があった。雨の日には、そこを借りて靴底の泥を落とす者も、配達先の返事を待つ者もいた。子どもは二本の指で庇の柱を挟み、通りの向こうを見ていた。十歳くらいだった。洗いすぎて白くなった紺の上着の袖から、黄色い紐が出ていた。
「どこの秤」
葉菜が尋ねると、子どもは柱から手を離した。
「あんたの」
葉菜は自分の胸の札を見た。市営衡器所、検査補助、柏木葉菜。札の下端が曲がって、姓の木の字を少し隠していた。彼女はその端を指で伸ばした。六年前から、緊張するとそうする癖があった。
「私は秤を持ってないよ」
「持ってる。朝の七時の」
市場の時鐘が鳴った。八時の鐘だった。魚の箱を積んだ台車が二人の間を通り、箱の角から落ちた水が葉菜の長靴に跳ねた。横を向いた一瞬で、子どもは庇の人の間へ消えていた。
呼び止めるには遅く、追うには行く先がわからなかった。
葉菜は手にした検査表の一枚目をめくった。朝七時、南棟三番、共同秤。表示誤差、許容範囲内。担当欄には彼女の印と、主任の三津田の印が並んでいた。
秤は合っていた。
少なくとも、彼女が調べたときには。
杷市は二本の街道が川を渡る平野にあった。東西の山から運ばれたものが、川沿いの道を通ってここに集まる。山菜、紙、染料、陶土、豆、小さな金属部品。海から来る品もあったが、値の中心を決めるのは、この土地では乾いた豆と紙だった。
どちらも水を吸う。
晴れた日の一貫と、雨の日の一貫は、同じ目盛りで売られても同じものではない。そう教わったのは葉菜が衡器所に入って最初の夏だった。そのときは、だから正確に量らなければならない、と理解した。今は、何を正確と呼ぶかまで決めなければ量れない、と知っていた。
南棟の共同秤は、個人の売り手が使うためのものだった。大きな商会は店ごとに検定済みの秤を持つ。荷車一台分も商えない者は、ここへ来る。売り手と買い手が皿を挟み、針を見て値を決め、荷を渡す。毎朝七時に市の者が検査する。その検査札を見れば、遠くから来た者でも針を信用できるはずだった。
秤の前には、荷の置き方を相談するだけの人も来た。持参した籠を量り、空の籠の重さを紙の端へ記してから、品物を詰め直す。その紙を買い手に見せる人も、懐へしまう人もいた。同じ一斤でも、何を差し引いた結果なのかを話さなければ、商いは始まらない。
売り手の手が皿を離れる瞬間を、葉菜は毎朝見ていた。指先を離したあとも、荷が崩れないかと掌を浮かせている。針を見るために顔を寄せると、今度は自分の袖が荷に触れる。受付が一声かけ、皆が半歩ずつ退く。機械だけを見れば済む仕事に見えて、その周囲にはいつも、置きどころを捜す手があった。
葉菜は八時十分に南棟へ戻った。
皿の上には何もなかった。大きな真鍮の針が零から一目盛り左に寄っている。彼女は裾を押さえてしゃがみ、台の下を見た。調整ねじには朝つけた封蝋が残っていた。赤い円の中央に、杷市の二枚葉の紋がある。割れも、押し直した形もない。
受付の女が気づき、札束を置いた。
「忘れ物?」
「朝のあと、重いものを落とした人はいましたか」
「ここに? 豆袋ばかりよ。いつもと同じ」
「使用簿を」
受付の川路は、厚い簿冊を手前に引いた。葉菜がそれを受け取らずにいると、眉を上げた。
「何かあった?」
「確認です」
その言い方が便利であることを、葉菜はよく知っていた。嘘ではない。だが、相手に必要なことを知らせずに済ませられる。昔の自分なら、正しい対応だと思っただろう。
「子どもに、狂っていると言われました」
川路は眉を戻した。
「子どもに」
「私が検査した秤だと」
「そりゃ大事ね」
笑うかと思ったのに、川路は立ち上がった。受付台の向こうから丸椅子を持ってきて、出入りの口に置く。
「次の人に待ってもらう。見て」
待っている間に失う商いがある。検査が短く終わればよい、と葉菜は思った。思いながら、短く終わらせることを目標にしてはいけない、と打ち消した。
丸椅子の前で、豆袋を担いだ男が立ち止まった。川路は片手を上げ、まだ待ち時間はわからないと言った。男は袋を下ろしかけ、地面が湿っているのを見て担ぎ直した。葉菜は箱の留め金に指をかけたまま、その肩の傾きを見た。
「あと何分、と言えないの」
男の声に棘はなかった。次の行き先を決めるための問いだった。
「今は言えません。途中で一度、わかったことをお伝えします」
葉菜が答えると、川路は受付の紙を裏返し、確認中、と太く書いた。椅子の背に載せた紙は、風で伏せないよう簿冊の紐で留められた。何も知らせず人を待たせるのと、わからないまま待ってもらうのとは違う。その違いを、川路は手を動かして形にしていた。
携帯箱から二つの分銅を出した。一斤と五斤。皿の中央に順に載せ、端へ移し、また中央へ戻した。針は毎回、規定の幅に収まった。分銅を取り去ると、零から左へ一目盛り。
最初の値を読み終えるまで、葉菜は次の分銅に手を触れなかった。針の先と目盛りが重なる高さに眼を置き、川路にも同じ場所から見てもらった。横から読めばわずかに違って見える。二人の読みが一致したことを、検査表の余白へ記した。
荷を除いてからも、しばらく眼を離さずにいた。針は一目盛り左で止まったように見えた。携帯箱を閉じる音にも、廊下を台車が通る響きにも動かなかった。彼女は、零に戻らず、と書いた。故障、と書くにはまだ足りない。いつものこと、と書けば、今見たものを見なかったことにしそうだった。
零点のずれは、今朝にもあった。まだ冷えた機械の癖だと三津田が言った。荷重をかければ正しく働く。検査手順の最後には軽く叩いて戻すことになっていた。葉菜が台の横を手の甲で叩くと、針は静かに零へ戻った。
何もなかった、と言えば仕事は終わる。
「朝から何件ですか」
「十一」
川路は使用簿を開いたまま差し出した。受け取り時刻、売り手、買い手、品名、重量。葉菜は指で行を追った。七時十三分、白豆、二十六斤。七時十九分、楮紙、九斤。七時二十四分、赤豆、三十一斤。
買い手の名前には、同じ商会が七度現れた。
「遠野屋は朝が早いんですね」
「早く買えば安く買えるから。帰りたい人もいるでしょう」
それから川路は、言葉を選ぶように間を置いた。
「それと、早く買わないと取れない品もある」
葉菜は次の行を見る。七時三十五分、晒し布、十四斤。この日一度だけの売り手の名があった。袖森トキ。買い手は遠野屋。
「この方は」
「子ども連れだった。袋を大事そうに抱えてたよ。織物組合へ入れない家の人だと思う」
「子どもは紺の上着でしたか」
「上着まで覚えてない。目の大きい子。お母さんが話してる間も、ずっと針を見てた」
葉菜はその行の時刻を書き写した。
書き写した紙を簿冊の脇に置き、名前と時刻を川路に読んでもらった。急いだ字の三が八に見えたので、葉菜は七時三十五分の三を書き直した。もとの記録へは線を引かなかった。
「止めておきますか」
彼女が尋ねると、川路は皿を見た。
「あなたが使ってはいけないと言うなら止める。使っていいなら、その言葉を待ってる人に伝える。私が困るからという理由で決めないで」
葉菜は分銅で確認できた範囲では異常が出ていないと告げた。川路はそのまま男に伝え、椅子を脇へ寄せた。安心してください、とは付け足さなかった。豆袋が皿に下ろされると、二人とも口を閉じ、針の止まる先を見た。
川路はそれ以上、葉菜を急がせなかった。
衡器所の窓は、通りより高い位置にある。石の階段を七段上がって、細長い部屋を一つ抜けると、作業台が並ぶ。使い終えた分銅は布で拭いて決まった穴へ戻す。大きなものから、小さなものへ。朝の検査に出た者は自分の箱を片づけてから記録を書く。
三津田はすでに記録を終えていた。昼前から降るという予報を聞き、濡れる前にもう一軒回ろうとしていた。
「南の秤を見直しました」
葉菜が言うと、彼は外套を取る手を止めた。
「何か出たか」
「分銅では出ませんでした」
「なら、どうした」
「布を量った人が、誤差を指摘したらしくて」
「らしい、か」
責める口調ではなかった。三津田は、不確かなものを不確かなまま扱うことを好む。その慎重さに葉菜は何度も救われた。今日も、その慎重さの内側へ入れば楽になる。
「布は皿からはみ出す。床に触れたんだろう」
「使用簿では十四斤です」
「十四斤の布なら、袋は大きい」
「実物を確かめてもいいですか」
「誰が持ってる」
「遠野屋です」
三津田は外套を腕にかけた。
「柏木。こちらの検査で異常が出ていない。商いを止める根拠はないよ」
「止めません」
「相手はそう思わないかもしれない」
その通りだった。衡器所の札をつけた人間が帳場へ来るだけで、取引の相手は身構える。何も出なければ出なかったで、疑われた記憶は残る。遠野屋には昨冬、量り売りの砂糖の件で苦情が来た。調べると、砂糖に混ぜた乾燥用の紙袋を売り手も買い手も重量に含めていた。悪意のない誤解だったが、訂正を掲示したあとも、遠野屋の店先を避ける人がいた。
三津田は机に外套を置いた。
「行くなら、僕も行く。苦情を受けたとは言わない。雨季前の扱いの聞き取りだ」
葉菜はうなずきかけて、止まった。
「それでは、どこで何が起きたか訊けません」
「訊き方の話だ」
「訊かれた理由を相手が知らないのは、よくないと思います」
三津田の顔には、小さな疲れが浮かんだ。彼は四十五歳だったが、年齢より若く見える日と、急に老けて見える日がある。今日は後者だった。
「なら、まず売り手から事実を聞け。誰からも訴えがないのに、名前だけを拾って相手へ行くな」
葉菜は、はい、と答えた。
答えてから気づいた。子どもは訴えたのだ。朝の七時の秤が狂っている、と。だが彼女は子どもの名前すら聞かなかった。自分の持つ検査表のほうを先に見た。
袖森という名は、杷市の北にある織り集落に多い。村役場で尋ねる前に、葉菜は市場の北口へ向かった。帰りの荷車がまとまる場所だった。
雨はまだ来なかった。空だけが低く、屋根の瓦の筋がいつもよりはっきり見えた。北口の茶屋で、湯を売る老人が鉄瓶を持ち上げた。
「飲むかい」
「袖森トキさんを捜しています」
「今日は帰った」
「ご存じですか」
「湯を買った。借りた銭を返すって言ってたな」
「どちらへ」
「北だよ」
老人はそこまで言って、葉菜の胸の札を読んだ。
「何か借りがあるのかい」
「借りではありません。お子さんに会ったので」
「なら、子どものことを訊けばいい」
葉菜は鉄瓶から出る湯気を見た。自分の話し方が、見えないところで人を追い立てているのかもしれない。
「朝、秤のことで声をかけられました。詳しく聞く前にはぐれてしまったんです。あの子と、話がしたい」
「そうか」
老人は椀に湯を注いだ。
「お代はいい、とは言わない。二銭だ」
葉菜は二銭を出して、椀を受け取った。熱い湯だった。縁の欠けた白い椀には、薄い茶渋が輪になっていた。
「その子は千路という。千の道と書くって、親が教えてくれた。十歳。トキさんの甥だ。今は一緒に住んでる。南へ行ったよ。忘れ物を取りに戻ると言ってた」
「お母さんではないんですね」
「そうだね」
老人は言い添えなかった。親がどうしているかを知っていたかもしれない。知らなかったかもしれない。葉菜は訊かなかった。それは秤の問題を調べるために必要な事実ではなかった。
椀を返したとき、老人が葉菜の検査箱を指した。
「それの重さは知ってるのかい」
「箱ですか」
「中身を全部入れて」
「十二斤と少し」
「少し、ね」
老人は笑って、椀を洗い桶へ沈めた。
南口に戻ると、千路はそこにいた。庇の柱に紐を結ぼうとしていた。黄色い紐は袖から出ていたのではない。手首に一周巻いて、端を掌に握っていたのだった。
「千路さん」
子どもは振り向いた。すぐに目を細めた。
「誰に聞いた」
「北口の湯を売っている人。あなたが秤のことを知っていると聞いて、捜した」
「さっき言った」
「そう。私が、聞かなかった」
千路は紐をほどいた。柱に目印を残すつもりだったらしい。
「どうして、ここへ戻ったの」
「トキさんに言われた。ちゃんと言ってこいって」
「トキさんは」
「橋の手前。荷車のところ。先に聞いて」
葉菜はうなずき、胸の札を外套の外へ出した。
「柏木葉菜。市の衡器所で、秤の検査を手伝ってる」
「手伝いなの」
「今は補助。検査の記録には私の名前も残る。今朝はあの秤を、使ってよいと確認した」
千路は黄色い紐を両手で伸ばした。長さは彼の腕の半分ほどだった。
「針を押したんだ」
「誰が」
「店の人。袋を置いて、針を押した」
葉菜は南棟の共同秤を思い浮かべた。針は丸いガラスの内側にある。直接指を触れることはできない。
「どこから」
「ここ」
千路は自分の腹の前に、見えない箱を置いた。その側面を、こつりと拳で打つ。
「叩いたの?」
「針を押したんだ。戻った」
「零に?」
「違う。袋が載ってるとき」
葉菜は返事をしなかった。雨が一粒、検査箱の蓋に落ちた。
「最初は十五だった。ちょっと下だったけど、十五に近かった。それを、店の人がここで押したら、十四になった。僕が言ったら、針が落ち着いただけだって」
「何度叩いた?」
「一度」
「トキさんは見た?」
「布を押さえてた。落ちないように」
床に触れたのではなかったか。三津田の言葉が浮かんだ。葉菜は、その可能性もあると思った。千路の話が間違いである可能性もある。だがどちらも、まだ確かめていないことだった。
「布が床についたところは見た?」
「ついてない。僕が持ってたから」
千路は紐をしまった。
「僕が小さいから、ちゃんと持てなかったと思ってる?」
「その可能性も確かめようとしてる」
「じゃあ、背の高い人なら訊かない?」
葉菜はすぐには答えられなかった。
千路は答えを待つ間、紐を掌へ巻きつけなかった。濡れそうな端だけを袖の内側へ入れ、葉菜から視線を外さずにいた。待てば答えが出ると決めているのではない。大人が別の用事へ逃げる前に、もう一度言う準備をしているように見えた。
葉菜は検査表を箱へ戻した。紙を見ながら答えると、また彼を待たせる気がした。
雨が増えた。庇の縁から落ちる滴が、地面の埃を丸く暗くしていく。
「訊くべきだと思う。誰が持っていても。ただ、私が本当に同じように訊いたかは、わからない」
千路は彼女を見上げた。その目の大きさを、今度は葉菜も覚えた。怒っている目だと思ったが、怒っているだけとも違う。彼女が自分の言葉をどう扱うのか、待っている目だった。
「いっしょに来て。もう一度見たい」
葉菜が言うと、千路は首を振った。
「トキさんに言ってから」
「そうだね」
彼女は検査箱を持ち直した。
南棟へ戻るより先に、橋へ向かった。今度は子どもの歩幅で。